2011年7月17日日曜日

あてがわれた日本の民主主義

2011年7月17日

あてがわれた日本の民主主義

イデオロギィ対立の時代と云われた二十世紀が終わり、二十一世紀は、日本人にとって自己実現の時代を迎えるはずだった。二十世紀の半ば、イデオロギィの対立により、東西の冷戦構造への対立が国防の要とされてきた。敗戦国日本は、戦犯者として巣鴨プリズンにいた数人の元政府幹部を、占領軍との、ある密約の基に出獄させた。密約の中味は、米国主導の基に西側陣営の橋頭堡として、日本を東西冷戦に参戦させ、戦術として民主主義に不慣れな日本に、いびつな民主主義をあてがうことになった。戦犯の一人岸元首相は、率先してこれに参戦・参画をし、その後の日本の命運を決定づけた。皮肉にも岸元首相の弟であった佐藤元首相に至るまで、核武装を中心とした密約が、国民の知らない中に、作られる度に、日本の米国従属体制は強化され、今日に至っても、その傾向は止まらない。マスコミもこれに介在した。

はずされたマスコミッショナー制度

戦後憲法の草案作成に盛り込まれた骨子を、長年付き合いのあった米軍幹部から聴いたことがある。その代表的な骨子の一つは、国家システムを徹底した中央集権にし、道路網でさえも、日本の国力をそぐ為に幹線道路を有料化して、いつでも閉鎖出来るように国家管理することや、行政執行面において、その内容の公正さや適性を監視するコミッショナー制度をはずすことだった。国民世論を懐柔するためのマスメディア戦略も、真実を隠し、戦後政治を長きに亘って牛耳ってきた米国と自民党の都合にあわせ、世論操作することだった。ある外国人記者は、「日本のマスコミは、本当のことを書かないことによって成り立っている」と揶揄した。今日の原発報道に至るまでこの体質は何も変わっていない。最早、東西の冷戦は終焉し、冒頭に述べた通り、自己実現と、真の民主主義が、日本に根付く環境は整ったかに思えるが、日本の社会、政治情況は、衰退の一途を辿り、政治は、安保体制の呪縛から一歩も出ることもなく、主体性を失っている。数年前、日経が主催したシンポジウムに招かれた米国国防幹部のアーミテージは、安保維持に否定的な発言をした日本人に対して、「誰のお蔭で、君達は安心して眠れるのか」と切り返し、恫喝した。

安保闘争の意味

思えば、愛国心に満ち、真の独立への熱情にかられ若者達が引き起こした安保闘争の時のような情熱や闘志は、日本から消え去っているように思える。米国から憲法を押しつけられ、国体を破壊され、日本の精神や美徳を保持しようとして、自決した三島由紀夫の叫びも、今は虚しい。しかし、私達日本人から、こうした情熱が本当に失われてしまっているのだろうか。若し失っているとしたら、何によって損なわれたのだろうか。

この後に及んで原発継続を叫ぶ人々

作家の村上春樹さんが、原発問題に触れたスピーチの中でこういっている。「戦後長い間我々の抱き続けてきた核に対する拒否感はいったいどこに消えてしまったのでしょう。我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう。理由は簡単です。『効率』です」と。「便宜」とも云っている。

大震災とは別の理由で、由々しく社会問題化している原発についても、実は、戦後の安保体制を中心に形成された官主導の大企業群が、その早期解決への道筋を阻んでいる。日本人の、特に地方の人々にとって、この官主導の大企業のもたらす恩恵は絶大無限である。この大企業の象徴的頂点にいる企業が東電であることは云うまでもない。石破茂という自民党の論客、個人的に、人を見下すような目付きや言動は好きではないが、奥方は、元東電のトップの娘さんと聴く。他に何人かの大臣経験者の奥方も東電幹部の娘さんである。テレビで保安院のコメンテーターとして露出度の多かった西山英彦審議官も、あろうことか娘さんが東電の社員である。東大教授で復興構想会議の副議長でもある厨屋さんが司会を努める時事対談の中で、これ又、福島に原発を誘導した張本人の渡部恒三が、現代の水戸黄門気取りで、石破茂と対談していた。件の事実を知っていた私は、重要な政治課題に成っている東電の問題をどう扱うか見守っていた。案の定、時事の要を主要テーマとしている番組で、東電問題には一言も触れなかった。マスメディアの世論操作の実態を垣間見る思いがしたのと同様に、出演者もその担い手といってよいと思った。産官業連合体の一部が見えた。復興構想会議の成果も、被災者よりも、大企業システムと政治家と財界人の利益の維持が優先されているように思える。国民には目に見えない、むしろ目に見えなくしている画策があるから、被災者対策、特に義援金や救援資金の配分にあたって、拙速が求められているにも拘わらず、画策・巧遅な手法が見え隠れするのである。

情報閉鎖国

放射能汚染も深刻で、新聞等で発表されているデータもまやかしいと思い、高い放射線検査機を買い込んで自宅の周囲を調べてみると、殆どの場所で報導値の3倍位いの数値を示していた。何故なのか。私達の周囲においては3倍位いの値は、人体への影響は殆んどないと云われるが、未だに原発関連の情報は、事実を隠し続けている気がしてならない。昨今まで報導されていた汚染水の浄化、処理も突然報導されなくなっている。被災地周辺の汚染が心配である。

こうした隠ぺい体質は、スポンサーである大企業主導のマスメディアが、本来のジャーナリスティックな機能を発揮できないことに由来している。原発事故発生時も、東電の勝俣会長は実費の1/10近い格安料金でマスコミの責任者を中国への接待旅行の最中だった。ご存じの方も多いと思うが、東電の原発システムを支えている仕組みは、米国GEのノウハウで、巨大企業・日立・東芝が支えている。更に建屋をはじめとする建物関連の施設は、大成・清水等の大手のゼネコンが支え、まさに、それは日本の官民一体産業構造の典型的ピラミッドである。このピラミッドに従事する関連企業の従業員・家族を含めると、凡そ五百万人位いの人口に匹敵する。こうした構造が日本の政治風土を下支えていると云えなくもない。だから変わらない。事実私の親族にも、たくさんの関係者がいる。とかく、日本人の伝統的気質から云えば、こうした関係者への発言を控えるのが美徳と云われてきた。私自身も傘下の企業で禄を得ている人々を、たくさんお客様として迎えている。できれば触れたくない。しかし、云わなければならない。関係者に直接の責任はないからである。個人の問題ではなく、国のゆくえの問題だからである。

渇望されるリーダー、政界には不在

私達大人は、私達の父母、祖先がそうであったように、未来を生き、未来を支えてゆく子供達のことを真剣に考え、取り組まなければいけない。そのことが、忘れかけている私達の大切な使命であるとも云える。使命は、直面する現実的課題を凌駕する。

原発の劣悪な情況を隠し続け、オルグまがいの居なおりしかできず、右往左往している管というリーダーは何者なのか。東電という一社独占の温床の中で公共料金の名目のもと、莫大な利益を挙げてきたこと。原発の是非を問う前に、四十年前の、古い設計、素材精度、どこをとってもあり得ない廃棄同然の装置を延命させてきたことに繋がってはいないか。四十年前の車を頭に浮かべれば、数段上の精度を要求される原発という機械装置が、延命できるはずがないことは、子供でも分る。何故か政治家もマスコミもこのことに触れない。

首相公選への道

管さんを生ましめた社会背景も必然のような気もするが、五十年余りに亘り、この国のエネルギー政策で、地方利権をもたらし、この体制を保持し続けて来た自民党の責任は重い。小なりと云えども、無から有を生じしめ、起業をしてきた者としては、歯がゆく、尊敬する本田宗一郎さんや、田中角栄さんが生きていたらどう思うだろうか。西洋にこんな諺がある。「一匹の羊が率いた百匹のライオンの群より、一匹のライオンが率いた百匹の羊の群の方がはるかに強い集団となる。」と。要は、リーダーが全てであるといっている。日本の情況は、自民党でも民主党でも、姑息さにおいては、ライオンにひけをとらない。実務経験と、事業家の事の字も分らない。ライオンの威を借りる羊が多すぎる。云い過ぎだろうか。首相公選しかこの国の進路を、子供達と豊かな未来という目的地に向かって大きく変えてゆく方法はないのか。そんな気がする。微力ながら、このことに一人の国民として関りたい。夢でもある。

問われる平和宣言に込めた思い

広島の平和宣言「安らかに眠って下さい。過ちは二度と繰り返しませんから」という言葉をもう一度、深く胸に刻む必要がある。若しかしたら被害状況は原子爆弾投下時に匹敵することに成りかねない日本の現況に対して、我慢と忍耐が民族的特性のように云われている私達も、怒りを現わにし、静かな改革への言動を起こし、勇気ある行動に迫られている。今まで、利権や政治には無関心だった人々こそ、勇気ある、少ない人々にエールを送ることが肝要である。真の復興構想も、効果のある対策も、今まで述べてきた現状の社会構造や古い政治体質からの脱却に、その成否がかかっている。特に大震災以後、地方経済の減退や、日本の不安定な社会システムを嫌気して、外国企業や外国人のみならず、国際マーケットで活躍している国内企業でさえも、日本離れしている。未来が見えにくく、夢や希望を抱きにくい国情から、留学生は十分の一になり、意欲のある若者は、外国に行ったまま戻らない現象もある。こうした実情を、国民は周知している。

乱立する塾の意味

しかし何のためか、有能な高校生達は、塾通いに腐心し、銀行の数以上に、主要駅の前には塾が乱立している。目的はイイ大学・イイ企業への参画である。もう一度考えてみなければならない。イイ企業の代表は東電であり、前述したマスコミであり、いずれも官民一体型の企業である。大半の職業生活を我慢の中で過し、トップに昇りつめるのは、ほんの数人しかない。実は、こんな単純な教育と産業の産学連繋も、私達は何となく、安心というオブラートで鵜呑みにしている。本質的な意味で、子供の能力、幸せ、生き方を考えているとは思えない。そういう私自身も考えすぎて、今のところ子供の教育には自信がない。私の体験を通して一つだけ云えることは、不足と貧しさを知ることは、最良の教育環境であるという位いだ。

何故か明治維新後の政治的リーダーを生ましめた地域は、地方に多い。原発誘致において、島根県内で、その手腕を発揮した竹下元首相、桜内大臣等は記憶に新しい。先の石破茂も鳥取選出である。政治家としての気質や手腕は、田中角栄張りの小沢一郎も岩手県である。違憲論争の渦中にある、票の重みの少ない東京や神奈川から、国家的リーダーが出たのは、件の小泉首相・管首相位いである。しかし管首相の出身地は山口県である。短絡するが、何故こんなにリーダーに選出される地方出身議員が多いかというと、どうも、その出自に関連していると思う節がある。私見であるが。①何らかの形で政治的領収のDNAをもつこと ②経済力の乏しい地方への企業誘致や、利権行使に手腕を発揮できる能力のあること ③対立する両派のどちらにも精通した人脈を形成できること 等である。都会派のリーダーとして人気の高い石原慎太郎等は、全てに精通していると想うが、日本的協調に馴染まず、私同様言動も過激である。しかし、若し私達が例外的存在で、「変わっている」とすれば、ゲーテの云った「例外は本質を表す」という言葉を肝に銘じて欲しい。「何とかしたい」という熱情が短言に走る。

詩「道程」に込められた光太郎の思い

今の管さんを始めとする国家運営の中枢が腐っているのでつい勢い込んでしまった。自分自身をなだめる時に、度々愛読している高村光太郎の詩の中に、一世紀近くも前に書かれたというのに、今日的課題への光をあててくれる一節がある。皆さんは、どう思われるだろうか。

「四離滅裂な

又むざんな此の光景を見て

誰がこれを

生命(いのち)の道だと信ずるだらう

それだのに

やつぱり此の生命(いのち)に導く道だつた

そして僕は此処まで来てしまつた

此のさんたんたる自分の道を見て

僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ

あのやくざに見えた道の中から

生命(いのち)の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ

これこそ厳格な父の愛だ

四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す

生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや這ひまはつて居るのもみえる

彼らも僕も

大きな人類といふものの一部分だ

しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない

人間は鮭の卵だ

千万人の中で百人も残れば

人類は永久に絶えやしない

棄て腐らすのを見越して

自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ

腐るものは腐れ

自然に背いたものはみな腐る

人類の道程は遠い

そして其の大道はない

自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ

歩け、歩け

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出来る

ああ、父よ

僕を一人立ちにさせた父よ

僕から目を離さないで守ることをせよ

常に父の気魄を僕に充たせよ

この遠い道程のため」