2012年12月4日火曜日

脱原発のための節電十一策

一、回転型交差点を普及(無信号化)・不要な信号機夜間消灯(6時間程度)
一、過剰なネオンサイン、サイン認知に止める。
一、自動販売機の夜間停止(6時間程度)
一、コンビニ 7-11営業に。
一、高速道路無料化(料金所撤廃)
一、原発止めて新企画の火力発電で補足(当面)
一、電力自由化(発送電分離)
一、電力使用のスマートシステム化
一、サマータイム制導入(照明時間の2時間短縮)
一、小水力・風力、再生エネルギーの強化
一、屋上緑化

<景気浮揚には、減税と規制撤廃が不可欠>

 20年の長きにわたり、景気の減退が暗雲のように日本全体を覆っている。大企業の経常利益だけは増え続けているが、内部に資金が留保され、新たな企業や消費の活動に還流されていない。閉塞状態だ。しかも一部業種に巨額赤字が出はじめた。
 天下りや税金のムダなバラマキは後を絶たず、増税。これでは益々景気は減退する。
 零細企業を経営する一企業人として毎年一億円近い法人税を払っているが、来年実施される所得税・法人税・相続税の相次ぐ増税策の中でヤル気を失っているのは私だけではない。納税は国民の義務であるが、一年間の汗の結晶とも云うべき所得の半分も企業も個人も取られて、今の政治情況、未来の見えない投資先にカネを棄てているように思えるとは、言い過ぎだろうか。
 所得税は、最高税率50%近く納税した上に、社会保険の高額ぶりなのに、保障はあてにならない。社会保険事務所は横柄で当たり前のように取り立ててゆく。結果、税負担は実質65%位いになる勘定だ。税負担が30%を超え半分近くになると、国は滅びるといった人がいる。本当だ。税だけではない。表面的な公務員減らしの為に、国民の安全や幸福に名を借りた、増え続ける規制、そして天下り先。結果○○機構・独法等、実質的な公務員の数は労働人口四人に一人と言われる始末だ。消費税を何%に上げようと、国家予算と同じく、バランスシートは示されず、使い途は、復興予算と同じ情況になりかねない。いくら増税しても足りないし、景況の悪い今、増税は逆効果だ。

<無意味な規制は、国民に負担を架す増税と同じ>

 無意味と思われる規制も、国民や事業者に新たな負担を強いる意味で増税と同じだ。身近な建築の仕事の中で、こんな一例がある。
 都市の中心部で準防火とか防火地域と呼ばれる防災のための規制地域がある。ここで使われる住宅サッシュの防火認定が著しく強化された。強化の背景は、大手メーカーの既製サッシュの防火機能を国交省の天下り先が検査したところ、火災発生後二十分の延焼時間が若干不足していたらしい。結果、今まで構造が防火性能基準を満たしていればサッシュとして流通していたものが、サイズが異なるだけで、個別に認定を受けなければいけなくなった。しかもこの認定には半年以上かかる。困ったメーカーは、これまでのサイズや形を半減することで当面は対応するらしいが、住宅の機能が高度化し、デザイン性への要求が高まる今日、バリエーションの半減は逆行している。実態を知らない天下り先の、一方通行の規制だ。しかもアルミサッシュは燃えるため、芯に鉄を入れる構造になった。価格も重さも現状の2倍になるらしい。規制の目的は、消費者の負担を軽減し、安全かつ公平なものづくりのためのしくみにあるはずなのに。
 バランスを著しく欠いている上に、専横的な官僚思考が、国民に重い負担を架そうとしている。

<所得税・法人税は国際規準に>

 所得税、法人税は、国際化の中で人も企業もヤル気を起こさせるために、国際規準に合わせるべきだ。せいぜい高くても30%、歴史学者の渡部昇一氏は一律10%でいいと断言している。
 医療については人件費のムダをなくすため医薬分離を見直すことも考えたらいい。高い健康保険料は、健康維持のために必要ではあるが、日本の医療の薬漬けは異常だ。私事だが、先般医者にかかった折、薬局の処方箋に二千円の技術料と書かれていたので不思議に思い、薬剤師に問い合わせたところ、何と薬棚から指定の薬を見分け、棚から卸す費用ということであった。この作業に1分とかからない。高い社会保険料は、収支の合わない厚生年金と合わせてこうして上がり続けている。

<福祉は施設支援から地域共助へ>
 
 何億円という税金支援を得て次々と作られる老人ホーム。老人ホーム経営の主体者に、およそ医療福祉とは無縁だった不動産業者、産廃業者、ゴルフ場経営者、ひいては驚くことに民事再生企業等が名を連ねている。周囲に何人も老人介護施設で働く若い人がいるが、一様に給料が安く、世帯持ちとなると生活費稼ぎのため、掛持ち勤務をしているという。
 ホームの介護の実態は、本来の目的と大きくかけ離れている。ますます高齢化する日本にこうした介護士や看護師の需要は増える一方だが、待遇が改善されないと成り手はいない。数年前、インドネシアから50人の看護師候補者が試験的に日本で看護業務に従事したが、言葉の壁と待遇や環境の違いで定着できなかった。医療・福祉に限らず建築の仕事でも外国人の手助けを必要としている。
 移民の門戸を拡げる政策と、柔軟な入国管理、移民法の対応が叫ばれる所以だ。


<法上競合>

 日本の成長を阻外している原因に、各省庁の政策が、しばしば、関り合う行政執行において、バッティングしていることにあるという専門家がいる。法上競合という言葉がある位いだ。労働基準法と児童福祉法が、児童養護施設で働く人々にとって、矛盾を生じている。短的に云えば福祉や教育という、「労働」という概念では片づけられない奉仕的な仕事に携る人々にとって、基準法に定められた労働時間を超えても、児童が成長し、喜ぶ姿を見れば、働き(奉仕し)たくなるのが当然だ。しかし公的な支援をうけている児童養護施設で、決められた労働時間を遵守しないと、認可を取り消されてしまうことがあるらしい。
 もう一度福祉や教育を、労働から奉仕という観点で見直し、ますます税負担の重くなる福祉政策を、在宅福祉を基に、地域共助型のカネではなく、人々の絆や助け合う力によって給うことを考えるべきである。

<橋下市長は稀代の天才政治家>

 風貌で損をしていると云えば小沢一郎氏もそうだ。若くして保守の本流を歩き乍ら、真の領袖に成り得ていない。検察の強引な手法で長い間政治活動の停滞を余儀なくされたが、政治心情や政治家としての識見はブレていない。なのにマスコミの偏向した報導も手伝って不人気。嘉田知事との連繋で未来の党を瞬く間に立党した。政治手腕は秀でている。もっと自信と勇気をもって最後の仕事に挑んでもらいたい。
 辺野古の基地移設で、県外移設を唱えた鳩山元首相も、利権とは無縁で、一つの方向性を唱えた点は、評価できるし、ノーブルな使命感はある。早い引退は惜しい。
 渡辺喜美みんなの党の代表も、会計士としての実務経験があり、実体経済の立て直しには向いている。政界一の勇気もある。ちょっと気になるのは、発想に借り物が目立ち、もっと、自らの着眼と、構想に一貫性を見出して欲しい。
 ここのところ後述する悪しきマスコミの報導も手伝って足を引っぱられぱなしの橋下市長は、私見であるが、稀代の天才的政治家である。国政と市政は違うという人もいるが、大阪府知事から市長への、短くも、5年の行動実績は、十分国政で通用する。石原都知事と合流し日本維新の党を立ち上げ、第3極を形成しつつある。野田首相の唐突な解散宣言のため、脱原発の点で政策のすり合わせが間に合わず出遅れている。しかし橋下氏、石原氏も共に正直さ、分り易い率直な弁舌と未来への決断力、実行力においてダントツだ。二人共率直な物言いで時々、ライバルにスキをつかれるが、分りにくい政治家よりずっとましだ。有能有敵、日本では有能は嫌われがちである。情念に支えられた有能は政治家に必要な資質である。
 
<大震災を含めた3年の民主党政権で、政権の是非は問えない>

 演説の好手で有名な野田首相だが、今回の解散宣言は、したたかでアッパレだ。この混乱は来年七月の参議院選挙までもつれこむと想われるが、身内の離反者が相次ぎ、過半数維持が難しくなりつつあった情況ではやむを得なかった。政治家として初めて、勇気ある決断をしたと云えるのではないだろうか。一年毎に変わってしまう与党リーダーは、自民党に端を発している。あの大震災の対応に追われた3年間の政権評価は、どの党が与党であっても難しかった。むしろ国難ともいえる大震災に際して、もっと党を越えた協力が各党間にあって良かった。今からでも遅くない。戦後50年続いた自民党政治のアカは落とされていない。日本人なら、最低もう4~5年、民主に政権を担ってもらってもいいと思う。
 いずれにせよ、原発を除き大同小異の政策論争でことを決めるべきではない。党利党略を超えて、国難と思われる現実に対処する助け合いが必要である。現在の国際情勢を見ても、米国との同盟維持は不可欠であるが、主権国家として、ちゃんと物が言える、国家としての独立性が大切だ。

深刻な日本の劣島化

○大震災後に見えたガバナンスの欠如

大震災は自然のもたらした大禍だったが、今年も温暖化現象の一つと想われる瞬間的な豪雨が列島各地を幾たびか襲い甚大な被害をもたらした。かつてない落雷被害も「もしこれが原発の上空だったら・・・」と多くの人々を不安に陥れた。日本列島を取り巻く地球環境が、大きな異変に包まれつつある予感すら抱かせる。
 しかしこうした自然変動への不安よりも、この日本列島を覆っている最大の不安は、何といっても政治ガバナンスのなさと、遅々として進まない被災地の復興、そして著しい情報閉塞による原発対策と国家の未来展望のなさ、等である。
 7月の某日、一年ぶりに去年被災地支援に訪れた南三陸・女川・石巻・南相馬を訪れた。驚いたのは、復興に関する諸施策の報道は山ほどあり、19兆円の予算支出をはじめ、復興・復旧がもう少し進んでいると思いきや「泰山鳴動してねずみ一匹」とはこのことか。極端な言い方をすれば、一年前の被災数カ月後とさして変わらない状況だった。周知のように70年分と云われるガレキ処理は受け入れ先の困難さ等から、未だ時日が必要としても、人々の不安は日に日に募り、生活再建は見えていない。女川町の郊外にある尾浦地区では漁を再開したい住民が復旧がままならない港湾を手作りで改修し漁を再開した。建築が禁止されている尾浦地区には基準法逃れの新築バラックが住民の思いを代弁するように建てられていた。構想や議論があっても、現実は解決力のない官僚政治の象徴である。市街地の復旧はおろか、移転先の目途さえついていないお粗末さであった。

○皮肉な原発企業のガバナンス

<復興著しい女川町にみる原発システムの威力>
 訪れた二市二町の中、人口の最も少ない(8千人余)女川町だけは、復旧を終え、新たな漁港施設が次々と建てられていた。道路やインフラも整備され、他の町との様相の違いに首をかしげた。ガレキの処理もほぼ全滅だった被災直後の状況からすれば、女川町が最も大変なはずだったのに、きれいに仮囲いされた処理場の中で殆んど、処理を終えつつあった。女川町の郊外に存在する女川原発の恩恵にあずかっていたからだ。巨額の資金がこの町に還流していた。

○復興資金の振り分けを牛耳る官僚と政治家
 
女川町に比べ、人口的には倍の人々が住んでいた南三陸町には、予想されていた復興資金の1/10も届いていなかった。町の防災センターに最後まで停まり、勇気あるメッセージを送り続けた遠藤未希さんの悲痛な叫びが、今も空しくこだましているように思えた。折から復興へのシンボルであった陸前高田の一本松もそしてこの防災センターも、壊すことだけは早い政治家の手によって消えようとしている。
 南三陸町の現状は、震災前一万五千人近くいた人々の中、幼児や小学生を抱えた世帯が他県に出てゆき、今は凡そ半分の8千人程の町になっていた。それでも地元の商店主有志が集まり、郊外の冷凍工場跡地にプレハブ造りの二十数軒の商店街を作り、にぎわっていた。被災直後の支援の際、お会いした通称、南三陸さんさん商店街の阿倍会長は、プレゼントに持参した商店街のTシャツに感謝を込め乍ら、半分になってしまったお客様と厳しい経営状況と将来に苦悩をにじませた。復活した商店の規模は、一軒約15坪で、全てブルドーザーで有名なコマツ製、出店に関して公的負担は店舗設備の半分程で自費出店、一年間の国保有後二年目からは町に所有権移転され全財産を失った商店主達に、五年後退去・撤去費用は自己負担という過酷な条件をしいている。何故そのまま営業を継続させてあげられないのか。訳が分からない。
 ある商店主は、こんなことを嘆いていた。「安住財務大臣の選挙区内の被災地では、全額公的資金で復興支援がなされているのに、力のない選出議員の我々の地域では、手続きに手間取った上、殆んどの支援金要請が却下されてしまう」と。被災地を訪れて明確に分かったことは、大手ハウスメーカーの安価な仮設住宅が地元政治家絡みの中小ゼネコンを通して、予想以上のスピードで建てられていたこと。事実、私達の会社にも地元ゼネコンの受注予定の仮設住宅を、地元ゼネコンの受注する金額の一棟30パーセント引きで建てられないかとの相談が某政治家の知人から来た。勿論即座に断った。日常茶飯事の、大企業と官僚主導の利権事業だけは早いのである。民主党政権になって3年、当初は事業仕分けなるものの手法も新鮮で期待感にみなぎっていたが何のことはないもとの杢阿弥、天下りは横行し予算バラまき行政が、官僚のしたい放題である。
 折から年度末予算消化のための不要な道路工事が日本の至るところで交通渋滞を巻き起こしている。相も変わらないお役所行政のシンボルだが、予算は余っている。なのに増税!

○復興予算19兆円のゆくえ

<ウソの名目で全国にバラマキ>
 南三陸に向かう浜街道で完成していない道の向こうに、首都圏でも斬新と想われる大規模サービスエリアが完成間近だった。道路の復旧もままならない多くの被災地の現状からすると極めて奇異な光景であった。多分、施設が完成しても半年間は使われないような周囲の道路事情なのに「何故、こんな立派なサービスエリアが必要なのか」と予算の執行を疑った。
 この一年半、被災地で出会った人々の大半は先の尾浦の漁港のように「町の再建はまず、人々の生活再建が先」と、異口同音に口にしているのに、各省庁のエゴで、箱物や道路設備だけは進んでも、人々の生活再建にカネは回っていない。こんなことなら被災者50万人に一律一千万円を贈与してあげれば五兆円ですむ。その方がマシではないか。結果的に生活再建→街の再建が進むという専門家もいる。同感だ。

<何と沖縄の防波堤工事が復興事業の怪>
19兆円の復興予算の中、被災地に直接投下された予算は、未だ2兆円足らずである。何と驚くことに大半の復興予算が被災地以外で使われつつある。NHKの報道によれば、総事業510件の中、被災地内の復興事業予算は30件に過ぎない。一例を挙げると、去年まで国土交通省の台風対策予算で作られていた、沖縄の防波堤工事が台風対策から地震対策に名目変更され5億円の予算が復興予算からあてられていた。中京地区のコンタクトレンズメーカーの工場増設に、災害時の雇用確保という名目で十億円、大震災により減少しつつある留学生を増やすという名目で、昨年まで文部省の青少年交流事業として予算化されていたものが、2日間被災地訪問をするというこじつけの理由で72億円というような巨額出費、ひどい出鱈目ぶりだ。腹が立つのは私だけではない。今回の消費税増税、社会保障費だけに目的化すると云っているが、どんな形の社怪保障がでてくるか見ものだ。この国には予算の使われ方を示すバランスシートもない。予算は余っていても次年度には増え続ける。これではどんなにおカネがあっても足りる訳がない。冗談ではない。野田首相は将来にツケを回さないための苦痛の選択といっているが根拠のない空しい発言としか聞こえない。


○政治の停滞・国会の無機能化は何故

ガバナンスの欠如、日本経済・社会の低迷は何故こんなに長く続いているのか。官僚が優秀でお上任せだからという人もいる。流石に、経済がしっかりしているという人はこの十数年いなくなった。
9月の自民党総裁選に立候補した五人の親の七光、2・3世議員が合わせて百光。このヒントになる。筆頭は安倍晋三である。潰瘍性大腸炎と称して本当かどうか分からないが、医療の専門家に聴くとメンタルな病気で完治の難しい病気だという。結果、自民党の人材難で総裁になってしまったが就任会見では極めて元気に振る舞い、挙句の果てに吉田松陰の辞世の句を持ち出し、「留め置かまし大和魂」とまで云ってしまう。舞い上がっている。一度は国のリーダーになりながら生き恥をさらすような状態でその責任を投げ出した。松陰は怒っているに違いない。そして、期待の橋下氏との連繋までささやかれている。橋下氏は私見であるが、稀代の天才政治家で、石原都知事と共に正直さ、率直な弁舌と未来への決断のできる数少ないリーダーだと思っている。有能有敵、日本では有能は嫌われがちである。私達には見えない何があるのか分からないが、連繋はNOだ。祖父は岸信介元首相、米国の画策した原発誘導と安保協力をひきかえに巣鴨プリズンからA級戦犯処刑を免れた御人だ。岸の娘である母上は悪名高い実業家との付き合いがあり、当実業家の運営する札幌の某霊園には母上の十数米大の観音像まである。疑惑の家系の三世議員だ。石破氏は票の重みの低い鳥取県の名門の出であるが、愛娘は東電の社員、風貌を批判するのはよろしくないが、妙に説法じみた言動と上目遣いの目つきが気になる。説法じみているのは母方の家系が宗教家だからからなのか。イタリアに「男は目と背中で分かる(イル・デル・ソル)」という諺がある。意外と的を得ている場合が多い。石原氏は父上がちょっと齢をとりすぎたが、まだ元気だ。都知事との親子連繋ができれば面白い。谷垣氏への裏切り行為のついでに、自民党から脱出してもいい。町村氏、林氏も名門の出であるが、ハングリーさに欠け、良くわからない。
どの御人も実業経験がなく真の説得力がない点で、政治家ではなく政治屋であるが、党内の政局にたけていても、天下国家を論じ政権をとるという気概と決断力が感じられない。サラブレットからなのか。民主先進国である英国では世襲は原則禁止、公募制が当たり前である。国会に出てゆくためには幾多の政治、実務的試練を経る。根底が異なる。根底から変える必要がある。

<国会に不可欠な真の議論・論争>
 
日本の国会中継を見ていて喧々諤々の議論の末、結論が見出されることはない。大した論争もなく、論争かと思いきや与野党互いのアラ探しと政局批判に終止している感がある。
 英国の国会は与野党互いが真剣に向き合いアドリブで打打発止論争を挑み、効果的な合意形成を目論む。その過程は日本のそれに比べ極めて分かり易い。日英国会機能の差は何故なのか。
 理由の一つに日本の国会は、一週間前に予め質問事項を提出し、官僚が下書きした結論を決めてから議論しているので、どんなに時間をかけても新たな真の合意や決断は得られない。
 従って議員も英国に比べ議題について完璧な勉強をしないことにつながり実践力に欠けている。予め決められた答弁書は各々の省庁サイドの意見に過ぎず、統治のための合意形成や効果的な決断・実行は生まれにくい。要するに過去や前例がものを云い、未来は拓かれない。
 この点、橋本市長は自らの出自と弁護士体験、そして政治家としての言動の中で決断が早く目利きも秀でている。そう思うのは小生の付き合いのある某私鉄の№2、F氏が不採算の大阪市の交通市局長にスカウトされたことで明らかだ。F氏は私鉄経営の要諦である労使交渉に敏腕をふるってきた。ある朝、友人であるF氏の姿がNHKのニュースで流されてこの人事を知り驚いた。話題になっている週刊朝日の記者、佐野真一なる作家の言動はさまに日本の言論の自由が脅かされていることを物語っている。大きな力を持つマスコミが、現在最も日本の未来を明るくできる一人のリーダーの足を引っ張っている。出自や経歴の事実を確かめた訳ではないが、「人は生い立ちやさまざまな経歴を経て大人になってゆく。」どんなことが事実であろうと、その事実があったからこそ今の橋下さんがあるのだから逆境であればある程、この人の人間の資質やリーダー力は強いと思うのが賢明である。相変わらずネタミ・ソネミ・ツラミの社会の中でマスメディアがこれを助長している風潮も感じる。真のジャーナリズムが必要である。

<政治の停滞は憲法と社会システムにも原因>
 憲法改正議論が長い間交わされているが、その要因の多くは「現実的ではない」「米国から強制された主体のない憲法である」というような考えに基づく。そもそも憲法とは法ではない。規範であり、国家づくりの枠組みである。専門家の言葉を借りれば「憲法とは国家の統治体制の基本を定める法の総体であり、最上位に位置するものである」
 米国から与えられ、若しくは強制されたと思える条文は、憲法の第十一条で「この憲法が国民に保障する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として現在及び将来の国民に与えられる。」となっている。この「与えられる」という言い方が紛らわしい。神様なのか国家なのか、はたまた制定当時の統治者なのか。分からない。更に基本的人権等というものはない。只単に「人権」である。この点ドイツ憲法では「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重しかつ保護することはすべての国家権力の義務である。」と、明確に主体を表現している。
 もう一つ大事な部分は「主権者不在の国家を作ってしまった」ということである。確かに憲法の前文に「ここに主権が国民に存することを宣言し、云々」とあるが、わが師の教えによれば、この場合の主権者とは国の統治についての意思決定者としての主権者のことであって、その統治権の行使について直接的責任をもつ権限の所有者または代行者としての主権ではないと云っている。即ち象徴天皇はいるが、我が国には主権の代行者としての元首が不在なのである。先の橋下氏達の施策の中で訴えている首相公選が実現すれば、これに近づくことはできる。

<教育権、教育の責任は親にある>

私達の幼い頃は、どの家庭でも家族の団欒があり、大抵の家族は夜8時頃になると家族が揃い、子供達のその日の出来事や温かい内々の会話が親を中心に交わされていた。今こうした団欒は過剰なまでの塾通いと親の生活体系の変化で殆んど無くなってしまった感が強い。この団欒や近所の年寄りから聴く昔話も、実は重要な教育の「場」であったはずである。
 憲法の教育規定は「すべて国民は法律の定めるところによりその能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有する」とあるが、誰が教育するのか。その責任の所在について明記されていない。この点、ドイツ憲法では「子供の育成及び教育は両親の自然の権利であり、かつ何よりもまず両親に課せられている義務である。その実行に対しては国家共同体がこれを監視する」と規定している。国や社会では間接的に責任をもっている。日本ではこの責任の所在が明確でないため、ともすると教育は「お上」がやるもの、学校に教育そのものの管理を任せ、教師に教育権があるような錯覚をしている。学校は「施設」に過ぎないのに、親の不明を学校に押し付けているような風潮もある。
 本来PTA等も子供を学校に預けている親が意向どおりの好ましい教育をしているかチェックするために作られた。しかし現在のPTAはどちらかというと親が先生達に気を使っている傾向があるように見える。余談になるが、勉強嫌いだった中学生の私は、クリスチャンだった担任の先生に、毎日夕方4:00~7:00まで先生の自宅の物置で強制的に勉強時間をもたされた。毎日「中学生時代」と称して先生とこの時の体験をノートに記し、指導を仰いだ。これはもう教育体験というより「人は何のために生きるのか」「仕事とは」という、今の義務教育に欠けている教育の本質と仕事観を教えていただいたような気がしている。

<マッカーサー主導の戦後の社会システム>
 日本の戦後体制のマッカーサー規範は、某米軍幹部から直接教示されたことだが、要約すると
① 日本の統治・行政システムは中央集権型をとり、地方を下部組織として改変し易いピラミッド型とする。結果地域自治力はうすれる。
② 行政・政治システムに「コミッショナー(行政執行のゆきすぎや不正を監視する役)」的機能をはずす。結果、利権構造が温存され、世襲・保守勢力が巾をきかす。指示がし易く米国と連繋し易くなる。
③ 道路網は拡充せず、非常時の滑走路としても機能させない。24ヶ所に及ぶ米軍基地周辺だけでなく、実質的に日本の空の制空権は米国が保持する。国家経済の発展に欠かせない交通体系は道路網より鉄道網の拡充をもってする。結果、コントロールし易い交通体系。結果、各地域でJR・私鉄が都市計画の上で絶大な力をもっている。震災後、鉄道利用が増えている。運賃は高い、見直しされるべきだ。
④ 飛行機製造をはじめ、戦力増強に繋がる産業は諦めない。等々。である。
今日の日本の政治的停滞と国民の無気力は自らが戦後の社会システムを真剣に考え創り出したものではなく若しかすると①~④のような枠組みの中で気付く、気付かないに関わらず従順で平和精神の旺盛な私達がひたすら繁栄を追い求めた結果なのかもしれない。そろそろ考え時ではないか。機は熟しつつある。
 石原都知事がその著書の中で「日本人に欠けているのは、資源ではなく変わろうという勇気とアイディアである。」と明言している。そして大震災を奇貨として、国の未来、経済至上主義のゆきすぎ、物の考え方、まともな人間の生き方、捨ててはならない日本文化、伝統を取り戻すことが大切だ。今もなお、勇気さえあれば、充分間に合う。それ程に自然環境や人間的ポテンシャルに未だ未だ、満ち溢れている。自信をもって変化に挑もう。

<原発デモで原発ゼロを云わざるを得なくなった首相>

復興構想会議とは何だったのか。官僚が結論を先に出している国会と同じくメンバーは政府が作る委員会、会議にも共通して政府よりの、予め出すべき結論に協力的な人々である。会議や委員会の作られ方は国に限らず県も市も自治会に至るまで同じと想える。国有化された新東電もまったく同じだ。新たに取締役に加わった某建材メーカーの代表者が入っているが、元は原発を推進した張本人の米国GEの筆頭副社長の経歴をもつ。何といってもヒドかったのは、原発再開に関する意見聴取会だった。利害関係者をはずし、原則無作為で構成されたはずなのに、中部電力の課長が入っていた。その発言ははじめから原発推進に終始していた。「放射能の直接的悪影響で亡くなった人は一人もいない」しかも「原発を止めれば高コストのエネルギーに頼らざるを得なくなり、経済に著しい悪影響を及ぼし、福島事故以上の不幸が国民を襲う」というような脅しともとれる原発関係者のエゴむき出しの発言に憤った。
背景に政府・電力関係者・官僚の意向が強く裏付けられていて、若しかすると公平・公正な裁判実現のために設けられた、裁判員制度の民間裁判官をこの聴取会に見られるような手法で選ばれていないか。身震いした。
これまでお上任せ、人任せだった国民が国会事故調べをはじめ、堂々巡りを繰り返し、遅々として進まない除染や闇のままの放射能汚染の状況にしびれを切らし国民は黙っていなかった。怒りは大きなウネリとなって国会前の17万人に及ぶデモと化し、津波のように国会関係者の心情に変化をもたらした。首相も度重なるデモの様子に、代表者と面談をし、今回の「2030年代原発ゼロを目指す」発言になったことは、国民、世論の勝利といって良く、どちらかというと政府・大企業よりのマスコミに対抗する努力として旗印を示せたのではないか。
この出来事の中にも私達の拠って立つ日本社会のしくみが、根底から崩れはじめ、近づきつつある変革への胎動が感じられる。この胎動を幸福な日本社会に繋げる牽引者は私達日本人の一人一人の自覚と結論を得るための真の論争に関わっている。
社会システムの根底には司馬さんだったと思うが、見事なこんな表現をしている。「日本人は大海に放り出されることなく、多くは会社という島に辿り着き、自己同一化し安心立命する。」と。規制をし、幾多の独立行政法人を作れば社会が機能すると錯覚している中央官僚にこの言葉を置き換えれば「官僚は、大海に放り出されることなく、十年足らずの偏差値呪縛の中で最高学府に辿り着き、何らの社会実業経験もなく法律を作り、法律の関係団体と自己同一化し、安心立命し天下りする」とは言い過ぎだろうか。官僚が悪いと云っているのではなく、社会システムを動かしているエネルギーやポテンシャルに無関心なのである。
日本の社会・経済の劣化は、皮肉だが英語で同音の「WRECK=レッカ(ぶち壊す、レッカー車のレックと同じ)しかない」と、英国に住む友人が云った。長い道のりだが時間をかけ衆知を集めてやる必要がある。後述するが、英国の政治・社会システムの中に私達の参考にすべきヒントがあると思う。

火男(ヒオトコ→ヒョットコ)

幕末、維新の胎動が始まりかけた頃、画家 葛飾北斎の盟友であった当時の人気作家 柳亭種彦の凄惨な死体が1カ月の拷問の凄さを物語る形で戸板にのせられ奉行所から帰ってきた。幾多のムチ打ちや切り傷の上に塩をかけられた、種彦の変わりように北斎は絶句したと伝えられている。
 表現や言論の自由が極度に制限されていた幕末、一方では出島や蘭学を通して入ってくる外国からの情報を知って有識者達はさまざまな隠し術を使って自由な表現や活動へのエネルギーをみなぎらせていた。
 北斎の晩年の作、小布施の岩松院の天井に描かれた十字架等もその一つと云われている。
 こんな時代に夜、宴会の席や遊興の世界においてはヒョットコやオカグラを通して自由な表現が一部見逃され、大目に見られ、人々の捌け口となっていた。ヒョットコの面を被った芸人から語られる圧政に対するギャグともいわれる表現は日に日に際どいものになっていったらしい。
 ヒョットコの語源は火男(ヒオトコ)にある。火男とは、元来「火を消さないように火を吹いている男」の意味で時代や社会の状況に対して警句を発し行動するという意味である。
 北斎も種彦もこうした意味で火男である。北斎は晩年、西洋の油絵の魅力に出会い、八十歳からの約十年間、老人にとっては過酷とも思える、一カ月山越えの長旅をものともせず、小布施の豪商 高井鴻山の支援を得て幕府禁制の自由な表現に挑んだ。道中、幕府の密使に追われながらも、その行き先をごまかす為に日光詣でのふりをして出かけたとも云われる。火男の執念がそして晩年の傑作を生ましめた。人間は理屈で火がつくものではない。情念で火がつくものである。
 維新から約百五十年、時代の様相は異なるが、維新前夜と思えなくもないくらい、社会が疲弊している。維新の志士を始め、日本に今日の成長をもたらしてくれた火男達の肝心の火を消してはならない。ヒョットコの面をつけてでもイイ。

〈悪しき政治と闇の献金システムの本質〉
高速無料化とかけ離れた
   第2東名という利権と闇の献金システム
 民主党政権になって一旦は、高速無料化の夢を体験した私達だったが、それも束の間、今や高速道路は官僚による天下り先の確保、利権のバラまき、実質上の献金システムの舞台となってしまった感がある。
 年末、毎年のように繰り返される予算消化のための冒大な道路工事と同じく、増税までして巨費を費やす道路を作りつづける理由はどこにあるのだろうか。国土交通省の地方にある土木工事務所は、そのOBも含めて地域の公共工事の主導権を握り、巧妙な政治家と地域大企業との利権構造を作りあげている。行政組織の都市計画の場もこうした人事がはり巡らされいる。先頃開通した第2東名の沼津サービスエリアもこのことを象徴している。何故こんな豪華なデパートまがいの高店街が必要なのか分からない。間接的に建設費は国民が負担している。しかも消費された売上が地元に落ちる訳でもなく、千客万来にも拘わらず、食事の値段は割高だ。本来であればガソリン税・自動車税等の他に高い高速料金を払って利用しているのだからその利用量の多さから云っても割安であるべきだ。ちなみに沼津港であればせいぜい五百円のウニ丼が千二百円という始末だ。この法外な利益はどこに行っているのか。ベラボウだ。普段頻繁に利用する海老名SA等はラーメンが七百円もする。巷では四百円程度のものだ。
 更にひどいのはガソリンスタンドの経営と施設である。ある時ガソリンが失くなり高い料金の沼津SAのスタンドを使ったのっだが車の出入りの前後で縁石にタイヤをこすってしまった。見てみると普通の幅よりも車道が狭い上に高目の縁石がせり出して見えにくかった。スタンドの運営会社が大手だったので「どうしてこんな設計にしたのか」聴いたところ、「地元政治家の紹介で今までスタンドの建築をやったことのない建設業者に建築を強要され、他にも沢山の不具合がある」と嘆いていた。やがて補修が必要となることな必定だがその補修費を結果的に負担させられるのは、またまた利用者になるのである。

淋しい徳山製油所の閉鎖
唯一の民族資本による石油精製企業・出光石油の徳山製油所が年内で閉鎖されることになった。戦前から戦後に駆けて、人間尊重と互譲の精神で、気骨ある経営風土を創造し、戦後並み入る欧米の石油資本と相手に堂々と戦いを挑み、日本のエネルギー政策と事業に貢献した出光佐三翁の魂ともいうべき製油所であった。
 精油所の閉鎖は、全ての石油供給を外国の手に委ねることを意味し、民族資本による石油供給にこだわった佐三翁の魂の火が消えることになる。
 更にこの閉鎖の意味する、もう一つの不都合な真実がある。それは、脱原発が叫ばれる中、本来、火力発電所の増設やエネルギー政策の要として必要な石油供給は維持すべきなのに、官僚主導で、原発依存体制が強化されていることだ。
 若し、佐三翁が存命であれば、この嘆かわしい情況を見て何とおっしゃるだろうか。折から、佐三翁を主人公としたノンフィクション小説「海賊と呼ばれた男」がベストセラーとなっている。愛国心のある国民であれば、皆、想いは一つにちがいない。

2012年10月18日木曜日

オリンピックに視るイギリスのインテリジェンス

平成24年10月13日

○日本と異なる政治家の使命感

八月の上旬、オリンピック開催中と開催後のロンドンを二回訪れた。目的地はニューヨークだったが、オリンピック開催中というのに、半月前の予約で計画通りにエアチケットが取れたことに驚いた。更にロンドン市内は何回か訪れた、かつての日常と差して変わりなく、変わったことと云えば一つだけ、警備が強化され、通行止めが多かったこと位だった。
この日常と変わりないオリンピックの開催風景には後で知るのだが、イギリス人の伝統を大切にする生活ぶりと経済や社会システムに関する独自の智慧が見事に活かされていた。
ノーブレス・オブリージュ(高貴な使命感、絶対的自制心)の代表として今日の英国議会の伝統スタイルを創ったチャーチル、鉄の女としてEU統合の際にユーロ圏非加盟を宣言し、今日のポンド独歩高を実現し、英国の政治家魂を貫いたサッチャー元首相、この二人の天才政治家の偉業と恩恵が実は今もオリンピック開催中のロンドンのそこかしこに息づいていた。チャーチルはその生家(ブレニム城)がサッカー場と飛行場が入るような裕福な家に生まれた。政治家は経済的に窮々としていてはダメだ。ノーブレス・オブリージュは基本的に俸給は不要だ。
地域についても、日本の地方議会と違って欧米では多くの地方議員は職業をもち、土・日に開かれる議会で仕事をし、俸給もボランティア程度で少なく、職業化していると云われる日本の地方議員とは志が異なる。普段は何らかの実業に従事しているため、議論にあたっても一面皮な見方はしない。「意見はどの立場で見るかによって変わってしまう。」という諺どおり、英国では色々な場面でガバナンスのための両眼志向が伺えた。長い間労働党と保守党の両眼志向とも云われる政党が互いにけん制しながら政権を担当していることにも理由がある。

○銀行の発祥地にふさわしい経済理念

銀行をバンクというのはそもそもシティにあるテムズ河の堤防(バンク)を語源としている。バンクは海外からやってくる旅行者が上陸する起点で、時折密航者等も大いにこの堤防を利用した。必然的にインバウンドにはポンドを、アウトバウンドには外国の通貨を、というような具合に両替の必要が生じ、これが発展して今日の銀行の姿になったと云われる。
議員の使命感も前述の通りだが、今回のオリンピック開催のコンセプトも素晴らしい。
インスパイアー・ジェネレーション(INSPIRE・GENERATION)、いろいろな考え方もあると思うが、「世代を超えて引き継ぐものとか、全ての人々への勇気づけ」というような意味だと思う。資本主義や世界の潮流も大きく変わろうとしている中で、新たなエネルギーの創出を狙ったメッセージである。
ロンドンオリンピックの開催予算は、何と前回中国の1/5だったと聞く。スポンサーであるグローバル企業の協力のさせ方も見事だった。オリンピックに使う公用車は自国メーカーではなく、ドイツ№2の自動車メーカーとして、このところ業績を延ばしているBMW一本に絞った。BMWにとっては、50億近い投資だ。ここにも英国流のインテリジェンスがあったと見る。まず自国メーカーを使うとフェアーでなくなる。更に№1よりも追い上げている№2企業の方が考え方が柔軟で積極的だ。まさにインスパイアー・ジェネレーションと共通している。
開催中、チケットは決められた窓口以外では買えず、完売だったにも拘わらず、どの会場も比較的空席が目立った。空席の多くはスポンサー席だったようだが、これはすでにスポンサーが負担済みで運営に支障はない。ダフ屋は皆無で、たまたま泊まったホテル前のツーリストでキャンセル待ちの切符を2枚手に入れた。定額のままだが、バレーとボート競技の2枚併せて2万円、内村選手の出る体操競技は何と4.5万円で余りの高さに遠慮した。

○テロ対策も国軍を使い万全

会場入り口のセキュリティチェックは厳しかったが、どの会場も日本の場合と異なり、出入りはスムーズだった。チェックする係員は英国軍の兵士があたり、「あっ、これはイラクに派遣されていた兵士と同じだ」という出立だった。同行した英国に住む友人は「ここにも経費のかからない運営がある」と云っていた。
警備といえばテロ対策も万全で、普段イギリス近海を警備しているヘリコプター搭載の空母をテムズ河に移動し、常時会場上空をヘリコプターが定期巡回して安全を確保した。これも日常の軍事演習の枠の中で処理され、特別な経費はかからなかった。日本だったら各県警から千人単位で宿泊所から派遣経費までを用意し、多額の出費をしいられると、想像してしまった。

○既存の施設を活かし徹底した倹約ぶりの運営

経済的な理由かどうかは分からないが、マラソンのコース設定も、四回同じコースを走るという珍しいやり方だった。お蔭で、同じ場所で四回にわたって選手の表情やレースの醍醐味を味わうことができた。コース設定や警備に係る費用も1/4で済んだのならアッパレだ。
15日間の旅行中、雨に降られたのは、マラソン見学の前半一時間と、ボート競技を見に行った一時間だけだった。いずれも英国特有の海洋性気候のせいでシャワー・アンド・サンシャインと呼ばれている。ボート競技会場の最寄りの駅を降りて、会場までの約4キロ、下着までずぶ濡れになった。会場について競技を観戦する間に、瞬く間に乾いてしまった。驚いたことに周りにいる英国人は雨など意に反さないという雰囲気だった。そういえばイギリス滞在中、少々の雨では傘をさした人を見かけなかった。
このボート競技場も、ロンドンの中心街から郊外列車に乗り換えて最寄駅まで小一時間の、田舎町に設けられていた。しかも最寄駅から会場まで、バスと小一時間の徒歩、都合2時間半もかかってしまい、会場に着くのに一時間余り遅くなってしまった。
チケット購入の際、何となく心配だったのでツーリストの係員に案内を乞うたが、分からないはずだ。にわか作りの会場だったのだ。しかし「何故こんな不便な場所に」と誰もが首をかしげた。これにはイギリスらしいすごい訳があった。
ボート会場は沼地の浮草をカットして長さ2キロ、幅凡そ三百メートルのコースに設けられていた。すごい訳は、隣地にウィンザー競馬場があり、観客の出入りの混雑を解消することに最適な大駐車場がもともとあったからだ。数万と思われた観客も2階建てバスが裕に百台は停まると思われるこの大駐車場のお蔭で、何の戸惑いもなく流れていた。

<次代に引き継がれるメイン会場のインフラ>

ロンドンオリンピックのメイン会場となったストラットフォードは、かつて冷蔵庫や自動車等の廃棄物処理場として利用されていた所だ。これまで市民の嫌悪施設となっていたこの処理場が、今日のオリンピックでスポーツ施設として蘇るばかりでなく、オリンピック終了後は二千七百戸の住宅地に生まれ変わる予定だ。オリンピックの施設インフラとこの住宅地のインフラが共通化されていて、一石二鳥の再開発手法だ。若し次々回の開催地に東京が選ばれるようなことがあれば、大いに参考にしたらいい。蛇足になるが、日本で本当に開催されることになるのであれば、私はメイン会場に遷都論の候補地にもなっている、被災地の福島郊外を提案したい。このところますます東京への一極集中が続く中で、その過密ぶりの解消と被災地復興のシンボルともなり得る。徹底した除染を一日も早く実施し、原発即時廃止による安全宣言を含めて、観光客や留学生を観光資源豊富な日本に呼び込みたい。

<オリンピック会場よりもにぎわうロンドン塔>

オリンピック開催中もロンドン市民の日常は普段通りだ。これまた日常通り運行されているテムズ河の遊覧ボートに乗って往復してみた。日本と違って水際は市民の生活の場と直接繋がっていて、一体化していた。更に驚いたのは、水際を彩るマンション群のバリエーションの豊富さだ。水際にある建物は殆んどが10~15階止まり、内陸部に入るにつれて、階層の数が増え続け、どの住民利用者にもその景観を公平に愉しめるようになっている。いわば都市の景観を住民が愉しむ一つのスタジアムのようだ。更に地下鉄も百年前のチューブと云われる小さな車輌を今も使い続けている。オリジナルを最大限に尊重し、伝統を後世に引き継ぐように、活用できるものは「捨てない・壊さない」がはっきりしていた。
そういえば、オリンピックの開会式もそうだった。産業革命前のイギリスの風景、鉄鋼業に携わる人々のたくましく働く姿、放牧場と英国主産物の一つ、羊毛の製造工程等々、いながらにして今日の英国を支えてきた人々と伝統を見事にビジュアル化した。新鮮だった。その発想や人間的な意味において中国の時とは全て異なっていた。「天の時、地の利、人の和」という成功の要因を全て満たしていたように思えた。

<先人の智慧を引き継ぐ伝統空間>

金融経済の発祥地シティは、たった3マイル四方のエリアにある。再保険で有名なロイズをはじめウイリス、英国銀行等、数百の金融関連企業が軒を並べている。シティの特徴は、世界を相手に四六時中取引をやっているため、レストラン、バー、日常の必需品やサービス業が全て揃っている点だ。紳士服の仕立屋・靴屋・マッサージ店等は高い所得層の紳士が多いためか、極めて高級である。
そのシティのど真ん中に、百年前から使われている赤い電話ボックスがある。何でも最初はオフィスをもたない野心的な起業家達が、長い間この公衆電話を自分のオフィス代わりに使っていた。他の公衆電話と異なるのは、ここには固定の電話番号があり、今でも時間を指定すれば、相手からの電話をここで受けることができる。試しに、この電話ボックスに入ってみたが、夜は格好の浮浪者の避難場所となるため、悪臭が漂い、耐えられなかった。この電話を利用して創業し、今は、立派なバンカーや保険会社を経営している企業家達が沢山いるそうだ。携帯が普及した今日、今この電話ボックスを利用する人は殆んどいない。しかし、初期の起業家達の苦労を物語り、シティの発展に貢献した証しとして、残されている。金融業にとって最も必要な情報の提供者として、国際通信網の育ての親のロイターの胸像もこの電話ボックスの傍らにある。
テムズ河をはさんでシティの対岸にある、旧ロンドン市役所も有名な歴史的建造物だ。現在の市役所は超モダンな建物であるが、旧市役所は築百年余りのかつての宮殿だ。この建物が大阪の不動産会社の所有だというので驚いた。何でも、十数年前に日本の銀行の反対を押し切って買ったらしい。所有者のS興産はたくさんのマクドナルドのフランチャイジー等、不動産の運用で財を成し、今やこの旧市役所の資産価値は購入時の数倍、地下はテムズ河沿いの水族館として利用され、オフィスや住宅等が入り、ドル箱になっている。日本の企業にもこんなツワモノがいたのか。オーナーは「銀行の言うことを聴いていたら、金儲けなどできない」と言っているそうである。
いずれにしても、日本企業が英国の伝統の空間化に一役買っていることを見て嬉しかった。見習わなければならない。

○都市は人間の森

先に述べたテムズ河沿いのマンション群をはじめ、イギリスの国土は日本と似ていて、決して広くはないが不思議なことにどこにも広い公園と緑が点在し、狭さを感じない。それどころか、マンハッタン等よりはずっと広い感じがする。多分、自然と人を最優先し伝統的に人と自然が長い間、調和を見出しながら創り上げてきた結果なのではないか。都市は「人間の森」まさにその実現化したモデルがイギリスにはある。
年に大小合わせて三千回以上も地震に見舞われる国土にも拘わらず、軟弱地盤の海辺に五十階に及ぶ超高層マンション群を大地震後も建て続けている日本はどうかしている。大企業・建設官僚・ゼネコンも可笑しい。どんなに建築技術が優れていようと、理論的に可能であっても、想定外はないのか。いやこんなものが危ないというのは想定内だ。イギリスの都市計画手法を学べば、地震国日本で超高層を建てる理由はない。断言できる。

2012年3月24日土曜日

希望をもてない被災地と域外で風化する大震災

2012年3月22日
希望をもてない被災地と域外で風化する大震災


東北大震災から一年が経ち、日本に住む多くの人々が、あの日の惨状を思い起こし、犠牲者の冥福を祈った。被災地の復興は議論すれど実効策は未だ見えず、人々の善意の賜物の多額の浄財もどこにどうなったのか、被災地の本格的復興の実現には役に立っていないと聴く。被害の激しかった南相馬市の桜井市長は「原発に対する安全神話の中で人々が生活していたが、警察無線で“キノコ雲が発生した”の一報で人々が逃げ惑い、大渋滞が発生した、3/11から現地の復興は、一割も進んでいないと嘆く。現地市役所でやりたいことは五万とあるのに、現場感覚のない中央官僚が保身集団と化し予算配分や具体策を実行に移さない。被災している自分たちが何故、永田町に頭を下げなければならないのか。」と無責任の上に使命感もない、政治状況に怒りを隠せない。
マスコミもこうした被災地の声や大震災の本質に迫る報道は日々に疎しで、3/11は記念日的扱いになりつつある。日本人の絆とか、東北は強いという美談はどのニュースにも現れるが、被災地以外の人々の心の中では少しずつ風化しはじめてはいないか。
折も折、被災地以外の地域では全国至る処で年度予算消化のための道路工事や不要な補修工事がたけなわである。こんな時位、余った予算、否、通常予算を削ってでも被災地に回すというような民間であれば、何でもない知恵が役所にはない。そして野田首相の増税策であるから、私達の怒りはおさまらない。でも誰も騒ぎもしないし、テレビ前の視聴者は毎日のように歳費をムダにして繰り返される国会の茶番劇を他人事のように溜息まじりで見ている。
もともと予算などのおカネの使い方を左右する経済はラテン語のオイコノミー(家計のヤリクリ)が変化しエコノミーになった。家計の要諦は「入るを計り、出ずるを制す」ことである。今年度と来年度と当分の間、税収は極端に落ち込むはずである。更に増税となれば先を見ることにたけた経済人や企業は日本から出てゆき、原発汚染の風評絶えない日本に来る企業・留学生・観光客は激減し、これまで培ってきた良き日本の風土はまさに地に落ちた状況になりかねない。今の政治家や官僚は税のもともとの語源である「禾=収穫物から、 =盗る」ことしか知らない。企業や人々が高すぎる税金に夢や、やる気を亡くすことが、いかに経済を停滞することになるかを知らない。もともと、物不足の時代を支えた、耐久消費財の生産で富を築いた幸之助さんが、二十一世紀の展望を同様な手法で政治家を育てようとした方法に語びゆうがあった。潜在的功名心の強く、身体の弱かった同氏は鉄の結束で社員を鼓吹し、同業他社を敵のように考え業界を席捲した。娘婿に貴族をもらい、何人かいたと云われる妻妾には、何人かの隠し子がいて、二代前の社長は同氏にそっくりの風貌をしている。しかしマスコミやPHPなどの何処からもそんな風評は伝わってこない。松下政経塾出身者の何と、20%もの人が国会議員になったことも驚異であるが、彼等は殆ど実際のビジネスで成果を出したり、倒産の浮目にもあったこともない。自助努力や信用や金銭の大切さを膚で感じて知っている人など殆んどいない。かすかに入塾時にあった志はのこっているが、実践の裏付けのない志は幸之助氏が買ったおかげでものの見事にリーダシップのない政治家を輩出しただけになりつつある。これでは松下損塾ではないか。今の政治家のリーダーシップに必要なのは目利きと決断である。損塾でこれを会得することは難しい。実践の中にしかない。


未来の見えない政治家

「今の日本で、子供を産み育てたい」と百%願える若者がどの位いるだろうか。未だに第二の福島原発が起こりかねない状況の中で終息宣言をするノー勘な首相、マスコミを始め、官僚・大企業・大学の先生たちは一人も「脱原発」を口にしない。脱原発を宣言できないとする多くの保守派の人々は恰も根治できない病の原発病巣を隠したまま、延命すれば、幸福な未来があるとでも思っているのだろうか。脱原発を先進国に先がけてやったドイツはもともと技術立国で東西ドイツの難事業であった統合を成し遂げ原発の是非に関する情報においても日本より先進国である。原子力の平和利用とは云え、唯一の被爆国である日本が、何故戦後間もない頃この劣悪な沸騰型原子炉を導入したのか。混乱のさ中にあった、産・官・学の一部の利権亡者が各々の業界の覇権を取るために、東電が震災後、尚も懲りずにとっている営業政策(マスコミ懐柔・事実情報隠ぺい・協力者への裏献金等)のような手法を使って米国、GEの力を借りて戦後の悪しき政治体制を作り上げて来たからに他ならない。多分小生の見解では復興予算などは一時的にゼネコン関係者を潤し地域政治家の新たな利権になるだけで、本格的な復興は結局のところ地元の篤志家や地域のリーダーの出現に委ねられることになるだろう。
こうした中で未だに原発の再稼働等あり得ないと思うのだが政治家のみならずマスコミ、大企業経営者の論調は「原発に頼らざるを得ない。」である。聴くところによると、東電は供給能力を15%程度過少表現をし、需要を15%多く見積もっているらしい。現在の発電量の30%程度を原発が給っているとすれば、不足は10%程度か、それ以下であると訴える専門家もいる。何しろ、東電は事実情報を隠ぺいするか、発表しても信頼性が乏しいので、これ程までに国民生活を恐怖と不安に陥れているからには、政府が強権を発動して本当の事実を明らかにすることが急務である。一日も早く脱原発宣言をすれば、被災地の復興活動は本格的除染と未来に向けて動き出す。自然エネルギーと再生可能なエネルギーへの研究・開発も大いに進み、新しいエネルギー活用と節約に国民の理解も深まる。何よりも日本を閉塞させている少子化に歯止めがかかることも期待できる。当面のエネルギー供給は、増税論で停滞している企業活動を優先し、家庭での節電に努め太陽と自然の恩恵を国民が改めて認識するために夏時間(サマータイム)制を導入して省電力を図ることも即効性があると思う。