2011年6月25日土曜日

仮設住宅より、まず仕事と糧を

2011年6月25日

「仮設住宅より、まず仕事と糧を」

南相馬市の原町第二中学校には、二百人近くの人々が窮屈な避難所生活を余儀なくされていた。避難所脇の校庭の隅に、宮崎県の有志から贈られた簡易浴室を折からの桜の開花が、避難所生活を支えていた。浴室は、四・五人が入れる位いの大きさで、絵心のある人が造ったのか、古びた中古の浴槽の脇に、形の良い馬酔木の小木が植えられ、人々にひとときの安らぎをもたらしているようだった。焼肉の炊き出しは、毎日、菓子パンとおにぎりの食事に明け暮れていた人々に好評で、またたく間に二百食を完食した。3階建の小学校の2階の、ちょっと広目の集会室が、避難所の食堂として使われ、1階には身動きのできない、高齢者の方々が、布団の上に、食事用のプレートを置き乍ら、文字通り、寝食を共にしていた。その後訪れた他の避難所もそうだったが、共同生活、治安維持のために、アルコールは一切禁止となっていた。五月中旬に訪れた女川町の小さな避難所で、炊き出しのあと、焼き鳥を出してしまった。お酒の好きな漁民の多いこの避難所のことを思い、地酒まで用意していったのだが、禁酒のルールを知り、すぐに、トラックの荷台に引っ込めた。焼き鳥のイイ臭いが、避難所になっているお寺の境内に立ち込め、天然水をコップ酒替りにして、焼き鳥を食べていただいた。それでも、人々は、美味しそうに頬をふくらまし、喜んでくれた。女川原発に近く、人里離れたこの小さな避難所は、収容人員が百人足らずで、殆どの家屋が津波に呑み込まれ、高台にあった保福寺という禅寺のお堂が避難場所として使われていた。避難している漁民は、真っ黒に日やけし、一日も早く漁に出たいと嘆いていた。

大浦地区というリアス式の典型的な入江に所在していたこの漁港は、その地形が幸いし、大半の船隻が難を免れ、すぐにでも漁ができる情況だった。リーダーらしき67歳になる漁師は、主要産品である、銀鮭、カキ、ウニなどを、この入江で養殖し、大震災当日まで四千万円近い銀鮭の幼魚を買い込み、出荷を心待ちにしていた。「家は、このまま、愉しいお寺のお堂でいいから、男は一にも二にも、仕事だ」と復興に向けて、意欲をみなぎらせていた。

仮設住宅が、スピーディーに建てられてはいるが、入居率は半分に満たない。仮設住宅に行けば、家族のプライバシイは確保されるが、食材の手当てもままならない現在の被災情況では、食事の確保が難しく、ましてや働く場所のない入居者の人々は、購入するおカネにも事欠いている。仮設住宅建設と共に取り組まなければならないことは、二千億円を越える義援金を、一刻も早く、最少生活資金として、被災者に分配することである。義援金を扱っている日赤は、阪神大震災の時の義援金も、まだ残されていると聴くし、何とひどいのは、事務局運営費に、30%もとっているらしい。こんなにとっているのは、イギリスと日本だけと聴く。

大浦地区で最も感動したことは、二十八歳になる禅寺の住職が、二十二歳で、誰も引き受け手のいなかった保福寺に赴任し、見るからに世話好きそうな奥さんと、二人三脚で、どちらかというと排他的な檀家の人々との連繋と信頼を深めてきたことだった。お堂に住む、百人余の漁民の人々と、この住職は、親子程の年令の違う漁民の人々の長男的存在として、継ぎのあたった粗末な僧衣に、身を包み、境内狭しと動き回っていた。豊かな檀家制度に支えられた都会のお寺に、日頃、本質的に「何か」が欠けていると思っていた「何か」が、いきいきと脈打っていることを垣間見てありがたく、嬉しかった。帰り際、避難所にいるご婦人達が、この住職家族を中心に集まり、再会を誓って、別れを惜しんだ。来年の今頃は、きっと豊漁に湧き、笑顔を取り戻した人々に会うことができるだろう。