2011年9月22日木曜日

大震災後の円高の意味


大震災後の円高の意味

 大震災後の円高、円高なのに輸入品の象徴であるガソリン価格の高騰、輸入品価格も円高の御利益がない。米国に行き、円高の恩恵があるかと想い、ちょっとした高額品を見てみると、国内価格とさして変わらない価格水準、何かが可笑しい。為替とは何なのか。

 七十数日の備蓄があるはずの原油も、何のための備蓄なのか良く分からない。為替変動に対する柔軟性や需給バランスを調整するためにあるはずなのに、原油供給大手企業は、空前の利益を出している。これらの企業は、東電同様、国策という名の基に、省庁の意向と深く関っている。天下りの受け入れ先でもある。本来、円高は、輸入に頼っている企業や、輸入品価格、海外投資をはじめいろいろな面でのメリットがあるはずなのに、活かされていない。一体、円高とは、何なのか。国際化・グローバル化とは誰のためのものなのか、その弊害が円高にでていると思わざるを得ない。

 思い返せば、85年のプラザ合意、90年代の米国による日本金融経済の総量抑制、近年のサブプライムローン問題、リーマンショックと、米国発の経済変動の度に、日本は大被害をこうむり、発生国の米国は、これをテコに、早期に立ち直るという図式を示して来た。米国社会が、日本に国債を買わせて、借金を重ね、ぜいたくな暮らしを続けている限り、円高は終わらないのか。円高は、米国に国債を償還する覚悟がないことを意味し、小手先の為替相場の操作と原油価格の主導権をとり続けることで、実質的な経済覇権を維持してゆくつもりなのか。日本にとって戦後は一体何だったのかを自らに問い、米国との同盟的恩恵は是としつつも、自主・自立への道を歩む峠(クライシス)に差しかかっている。

統合の矛盾

 グローバル化やEUの統合、金融や経済面における協調的行動が、世界の経済活動や平和を促進するはずなのに、近年、世界各地で頻発している不穏な現象は、何なのか。いろいろな現象が、こうした統合への動きの本質やクライシスを現しているような気がする。欧州連合の財政危機、イギリス国内の故なき暴動の頻発、リビア・タイ等の政変、ロシアの減退、ウクライナにおける不可解なリーダーの失脚、病変、中国辺境における体制強要に対する反抗、アフリカ諸国の飢餓等々枚挙にいとまがない。何のための統合や基準作り、平和規定なのか、成果が見出しにくい。

 一つの理由として、グローバル化や国際的基準づくりは、あくまで個々の国の歴史や、人々の暮らし方を重視する、グローカルイズム(地域の特性を基礎として、協調を目指すこと)によって成さなさなければならない。単なる効率化や統合は、金融や人々の往来の自由を促進するためのものであっても、個々の幸福やささやかな日常を脅かすものであってはならない。先の世界各地で頻発する不穏な動きは、こうした個々の事情を無視した体制づくりに無理があることを知るべきである。

ギリシア財政危機の意味

 こうした点で、好個の事例を8月の休暇で訪れたギリシアで垣間見てきた。ご存知の通り、ギリシアはEU統合の中で、かつてない財政危機に見舞われ、デフォルト(債務不履行)しかねない情況にある。首都アテネは、紀元前に、民主的都市国家を実現した理想国家の首都である。国家創立以来、民主国家としての評価を保ち、その精神は今も健在である。先にはオリンピック発祥の地としてオリンピックが開催され、オリンピックスタヂアムも今回見てきた。しかしアテネ市内には、このスタヂアムをはじめ、殆ど10階以上の建物は無く、インフラに至っては、財政危機を象徴するかの如く、極めて貧弱な設備、基盤しかなかった。小生がこれまで見てきた欧州諸国のどの国よりも、そのインフラは歴然と、劣っていた。明らかにどの建物も五十年以上は経っていると思われるものばかりで、その中心街でさえ、老朽化したマンションが無人化し、点在していた。ギリシアはご存知のとおり、日本と同様地震国である。この意味で10階建以上の建物が殆どないというのは肯けた。有史前に市民社会を確立し、理想の都市国家を実現した国なのに、現代において、何故こうも、都市計画や整備が脆弱なのか、不思議だった。その国の財政情況は、その国民が、何を理想とし、貯蓄を投資しているかによって良く分る。少なくともアテネ市内において、アクロポリスをはじめとする歴史的な遺跡は、重要な観光資源として整備されていたし、今もなお息の長い遺跡整備が続けられていた。この点でインフラの脆弱さとは裏腹に、遺跡や文化遺産の保持は、見事なまでに、充実していた。そして、四日間のアテネ滞在の最中に、アテネ市民の生き方や都市に対する精神的姿勢を垣間見ることになった。

大切な普遍的日常生活

 二日目の日中、国会議事堂の周辺が、折からの国家公務員の大巾賃下げに対するデモのため約三キロ四方の中心街が閉鎖された。閉鎖されていることをタクシーに乗ってはじめて知った。日本のタクシー料金の1/3で、観光客の足としてはとても便利だったが、この日ばかりは通常の5倍位いの料金をふっかけられた。遠回りしたせいもあったが、お蔭でアテネ市内の輪かくを辿ることもできた。最新の機関銃をもった兵士が、五十人位いの単位で、この輪かくの要所要所に身構えていた。かつて日本に戒厳令のしかれた情況も、こんなものなのかと、想像が頭をかすめた。驚いたのは、その夜の中心街の景色だった。日中の戒厳令のような情況が嘘のようだった。多分、身構えていた兵士も、デモ隊の市民も、呉越同舟、夕方にはバリケードが解かれ、中心街のありとあらゆるレストランやバーで深夜まで歓声が飛びかい、談笑する光景が見られた。訪れた日本レストラン、これ又、料金が日本の1/3、ギリシアだけは円高の恩恵を実感した。ローソクが灯り、ユトリロの描いたモンマルトルのにぎわいのような、温かな人間交流の場があちこちで湧き上がっていた。アテネ市民が古代から大切にしてきた、ささやかではあるが、生きることを謳歌する日常があった。背景になっている遺跡も老朽化した建物も影絵のように美しく、この市民が、こよなく愛してきた伝統空間として、何の違和感もなかった。

 小生のギリシア財政危機に対する解釈は、こうだった。欧州連合によって、ギリシア経済に、一時的に統合の恩恵をもたらしたが、経済、とりわけおカネに執着しないギリシア市民は、政府の財政的ムダ使いに気付かず、日常生活を謳歌していた。勿論、欧州連合加盟によって潤った余剰をインフラに回す等という考えは毛頭抱かなかった。先のデモのように民主を維持する精神も健在で、結果として、“カネ”を至上とする経済連合には、ついてゆけないギリシア特有の財政感覚が、今日の危機を招いたのではないか。今も尚、ギリシア市民は、本当に、この情況を危機と思っているのだろうかうたがわしい。そして三千年に及び存在してきたこの国の市民の日常は変わらない。この点で日常生活を変えてまで、経済至上主義に走った、日本の財政危機は、深刻である。

2011年7月17日日曜日

あてがわれた日本の民主主義

2011年7月17日

あてがわれた日本の民主主義

イデオロギィ対立の時代と云われた二十世紀が終わり、二十一世紀は、日本人にとって自己実現の時代を迎えるはずだった。二十世紀の半ば、イデオロギィの対立により、東西の冷戦構造への対立が国防の要とされてきた。敗戦国日本は、戦犯者として巣鴨プリズンにいた数人の元政府幹部を、占領軍との、ある密約の基に出獄させた。密約の中味は、米国主導の基に西側陣営の橋頭堡として、日本を東西冷戦に参戦させ、戦術として民主主義に不慣れな日本に、いびつな民主主義をあてがうことになった。戦犯の一人岸元首相は、率先してこれに参戦・参画をし、その後の日本の命運を決定づけた。皮肉にも岸元首相の弟であった佐藤元首相に至るまで、核武装を中心とした密約が、国民の知らない中に、作られる度に、日本の米国従属体制は強化され、今日に至っても、その傾向は止まらない。マスコミもこれに介在した。

はずされたマスコミッショナー制度

戦後憲法の草案作成に盛り込まれた骨子を、長年付き合いのあった米軍幹部から聴いたことがある。その代表的な骨子の一つは、国家システムを徹底した中央集権にし、道路網でさえも、日本の国力をそぐ為に幹線道路を有料化して、いつでも閉鎖出来るように国家管理することや、行政執行面において、その内容の公正さや適性を監視するコミッショナー制度をはずすことだった。国民世論を懐柔するためのマスメディア戦略も、真実を隠し、戦後政治を長きに亘って牛耳ってきた米国と自民党の都合にあわせ、世論操作することだった。ある外国人記者は、「日本のマスコミは、本当のことを書かないことによって成り立っている」と揶揄した。今日の原発報道に至るまでこの体質は何も変わっていない。最早、東西の冷戦は終焉し、冒頭に述べた通り、自己実現と、真の民主主義が、日本に根付く環境は整ったかに思えるが、日本の社会、政治情況は、衰退の一途を辿り、政治は、安保体制の呪縛から一歩も出ることもなく、主体性を失っている。数年前、日経が主催したシンポジウムに招かれた米国国防幹部のアーミテージは、安保維持に否定的な発言をした日本人に対して、「誰のお蔭で、君達は安心して眠れるのか」と切り返し、恫喝した。

安保闘争の意味

思えば、愛国心に満ち、真の独立への熱情にかられ若者達が引き起こした安保闘争の時のような情熱や闘志は、日本から消え去っているように思える。米国から憲法を押しつけられ、国体を破壊され、日本の精神や美徳を保持しようとして、自決した三島由紀夫の叫びも、今は虚しい。しかし、私達日本人から、こうした情熱が本当に失われてしまっているのだろうか。若し失っているとしたら、何によって損なわれたのだろうか。

この後に及んで原発継続を叫ぶ人々

作家の村上春樹さんが、原発問題に触れたスピーチの中でこういっている。「戦後長い間我々の抱き続けてきた核に対する拒否感はいったいどこに消えてしまったのでしょう。我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう。理由は簡単です。『効率』です」と。「便宜」とも云っている。

大震災とは別の理由で、由々しく社会問題化している原発についても、実は、戦後の安保体制を中心に形成された官主導の大企業群が、その早期解決への道筋を阻んでいる。日本人の、特に地方の人々にとって、この官主導の大企業のもたらす恩恵は絶大無限である。この大企業の象徴的頂点にいる企業が東電であることは云うまでもない。石破茂という自民党の論客、個人的に、人を見下すような目付きや言動は好きではないが、奥方は、元東電のトップの娘さんと聴く。他に何人かの大臣経験者の奥方も東電幹部の娘さんである。テレビで保安院のコメンテーターとして露出度の多かった西山英彦審議官も、あろうことか娘さんが東電の社員である。東大教授で復興構想会議の副議長でもある厨屋さんが司会を努める時事対談の中で、これ又、福島に原発を誘導した張本人の渡部恒三が、現代の水戸黄門気取りで、石破茂と対談していた。件の事実を知っていた私は、重要な政治課題に成っている東電の問題をどう扱うか見守っていた。案の定、時事の要を主要テーマとしている番組で、東電問題には一言も触れなかった。マスメディアの世論操作の実態を垣間見る思いがしたのと同様に、出演者もその担い手といってよいと思った。産官業連合体の一部が見えた。復興構想会議の成果も、被災者よりも、大企業システムと政治家と財界人の利益の維持が優先されているように思える。国民には目に見えない、むしろ目に見えなくしている画策があるから、被災者対策、特に義援金や救援資金の配分にあたって、拙速が求められているにも拘わらず、画策・巧遅な手法が見え隠れするのである。

情報閉鎖国

放射能汚染も深刻で、新聞等で発表されているデータもまやかしいと思い、高い放射線検査機を買い込んで自宅の周囲を調べてみると、殆どの場所で報導値の3倍位いの数値を示していた。何故なのか。私達の周囲においては3倍位いの値は、人体への影響は殆んどないと云われるが、未だに原発関連の情報は、事実を隠し続けている気がしてならない。昨今まで報導されていた汚染水の浄化、処理も突然報導されなくなっている。被災地周辺の汚染が心配である。

こうした隠ぺい体質は、スポンサーである大企業主導のマスメディアが、本来のジャーナリスティックな機能を発揮できないことに由来している。原発事故発生時も、東電の勝俣会長は実費の1/10近い格安料金でマスコミの責任者を中国への接待旅行の最中だった。ご存じの方も多いと思うが、東電の原発システムを支えている仕組みは、米国GEのノウハウで、巨大企業・日立・東芝が支えている。更に建屋をはじめとする建物関連の施設は、大成・清水等の大手のゼネコンが支え、まさに、それは日本の官民一体産業構造の典型的ピラミッドである。このピラミッドに従事する関連企業の従業員・家族を含めると、凡そ五百万人位いの人口に匹敵する。こうした構造が日本の政治風土を下支えていると云えなくもない。だから変わらない。事実私の親族にも、たくさんの関係者がいる。とかく、日本人の伝統的気質から云えば、こうした関係者への発言を控えるのが美徳と云われてきた。私自身も傘下の企業で禄を得ている人々を、たくさんお客様として迎えている。できれば触れたくない。しかし、云わなければならない。関係者に直接の責任はないからである。個人の問題ではなく、国のゆくえの問題だからである。

渇望されるリーダー、政界には不在

私達大人は、私達の父母、祖先がそうであったように、未来を生き、未来を支えてゆく子供達のことを真剣に考え、取り組まなければいけない。そのことが、忘れかけている私達の大切な使命であるとも云える。使命は、直面する現実的課題を凌駕する。

原発の劣悪な情況を隠し続け、オルグまがいの居なおりしかできず、右往左往している管というリーダーは何者なのか。東電という一社独占の温床の中で公共料金の名目のもと、莫大な利益を挙げてきたこと。原発の是非を問う前に、四十年前の、古い設計、素材精度、どこをとってもあり得ない廃棄同然の装置を延命させてきたことに繋がってはいないか。四十年前の車を頭に浮かべれば、数段上の精度を要求される原発という機械装置が、延命できるはずがないことは、子供でも分る。何故か政治家もマスコミもこのことに触れない。

首相公選への道

管さんを生ましめた社会背景も必然のような気もするが、五十年余りに亘り、この国のエネルギー政策で、地方利権をもたらし、この体制を保持し続けて来た自民党の責任は重い。小なりと云えども、無から有を生じしめ、起業をしてきた者としては、歯がゆく、尊敬する本田宗一郎さんや、田中角栄さんが生きていたらどう思うだろうか。西洋にこんな諺がある。「一匹の羊が率いた百匹のライオンの群より、一匹のライオンが率いた百匹の羊の群の方がはるかに強い集団となる。」と。要は、リーダーが全てであるといっている。日本の情況は、自民党でも民主党でも、姑息さにおいては、ライオンにひけをとらない。実務経験と、事業家の事の字も分らない。ライオンの威を借りる羊が多すぎる。云い過ぎだろうか。首相公選しかこの国の進路を、子供達と豊かな未来という目的地に向かって大きく変えてゆく方法はないのか。そんな気がする。微力ながら、このことに一人の国民として関りたい。夢でもある。

問われる平和宣言に込めた思い

広島の平和宣言「安らかに眠って下さい。過ちは二度と繰り返しませんから」という言葉をもう一度、深く胸に刻む必要がある。若しかしたら被害状況は原子爆弾投下時に匹敵することに成りかねない日本の現況に対して、我慢と忍耐が民族的特性のように云われている私達も、怒りを現わにし、静かな改革への言動を起こし、勇気ある行動に迫られている。今まで、利権や政治には無関心だった人々こそ、勇気ある、少ない人々にエールを送ることが肝要である。真の復興構想も、効果のある対策も、今まで述べてきた現状の社会構造や古い政治体質からの脱却に、その成否がかかっている。特に大震災以後、地方経済の減退や、日本の不安定な社会システムを嫌気して、外国企業や外国人のみならず、国際マーケットで活躍している国内企業でさえも、日本離れしている。未来が見えにくく、夢や希望を抱きにくい国情から、留学生は十分の一になり、意欲のある若者は、外国に行ったまま戻らない現象もある。こうした実情を、国民は周知している。

乱立する塾の意味

しかし何のためか、有能な高校生達は、塾通いに腐心し、銀行の数以上に、主要駅の前には塾が乱立している。目的はイイ大学・イイ企業への参画である。もう一度考えてみなければならない。イイ企業の代表は東電であり、前述したマスコミであり、いずれも官民一体型の企業である。大半の職業生活を我慢の中で過し、トップに昇りつめるのは、ほんの数人しかない。実は、こんな単純な教育と産業の産学連繋も、私達は何となく、安心というオブラートで鵜呑みにしている。本質的な意味で、子供の能力、幸せ、生き方を考えているとは思えない。そういう私自身も考えすぎて、今のところ子供の教育には自信がない。私の体験を通して一つだけ云えることは、不足と貧しさを知ることは、最良の教育環境であるという位いだ。

何故か明治維新後の政治的リーダーを生ましめた地域は、地方に多い。原発誘致において、島根県内で、その手腕を発揮した竹下元首相、桜内大臣等は記憶に新しい。先の石破茂も鳥取選出である。政治家としての気質や手腕は、田中角栄張りの小沢一郎も岩手県である。違憲論争の渦中にある、票の重みの少ない東京や神奈川から、国家的リーダーが出たのは、件の小泉首相・管首相位いである。しかし管首相の出身地は山口県である。短絡するが、何故こんなにリーダーに選出される地方出身議員が多いかというと、どうも、その出自に関連していると思う節がある。私見であるが。①何らかの形で政治的領収のDNAをもつこと ②経済力の乏しい地方への企業誘致や、利権行使に手腕を発揮できる能力のあること ③対立する両派のどちらにも精通した人脈を形成できること 等である。都会派のリーダーとして人気の高い石原慎太郎等は、全てに精通していると想うが、日本的協調に馴染まず、私同様言動も過激である。しかし、若し私達が例外的存在で、「変わっている」とすれば、ゲーテの云った「例外は本質を表す」という言葉を肝に銘じて欲しい。「何とかしたい」という熱情が短言に走る。

詩「道程」に込められた光太郎の思い

今の管さんを始めとする国家運営の中枢が腐っているのでつい勢い込んでしまった。自分自身をなだめる時に、度々愛読している高村光太郎の詩の中に、一世紀近くも前に書かれたというのに、今日的課題への光をあててくれる一節がある。皆さんは、どう思われるだろうか。

「四離滅裂な

又むざんな此の光景を見て

誰がこれを

生命(いのち)の道だと信ずるだらう

それだのに

やつぱり此の生命(いのち)に導く道だつた

そして僕は此処まで来てしまつた

此のさんたんたる自分の道を見て

僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ

あのやくざに見えた道の中から

生命(いのち)の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ

これこそ厳格な父の愛だ

四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す

生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや這ひまはつて居るのもみえる

彼らも僕も

大きな人類といふものの一部分だ

しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない

人間は鮭の卵だ

千万人の中で百人も残れば

人類は永久に絶えやしない

棄て腐らすのを見越して

自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ

腐るものは腐れ

自然に背いたものはみな腐る

人類の道程は遠い

そして其の大道はない

自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ

歩け、歩け

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出来る

ああ、父よ

僕を一人立ちにさせた父よ

僕から目を離さないで守ることをせよ

常に父の気魄を僕に充たせよ

この遠い道程のため」

2011年6月25日土曜日

仮設住宅より、まず仕事と糧を

2011年6月25日

「仮設住宅より、まず仕事と糧を」

南相馬市の原町第二中学校には、二百人近くの人々が窮屈な避難所生活を余儀なくされていた。避難所脇の校庭の隅に、宮崎県の有志から贈られた簡易浴室を折からの桜の開花が、避難所生活を支えていた。浴室は、四・五人が入れる位いの大きさで、絵心のある人が造ったのか、古びた中古の浴槽の脇に、形の良い馬酔木の小木が植えられ、人々にひとときの安らぎをもたらしているようだった。焼肉の炊き出しは、毎日、菓子パンとおにぎりの食事に明け暮れていた人々に好評で、またたく間に二百食を完食した。3階建の小学校の2階の、ちょっと広目の集会室が、避難所の食堂として使われ、1階には身動きのできない、高齢者の方々が、布団の上に、食事用のプレートを置き乍ら、文字通り、寝食を共にしていた。その後訪れた他の避難所もそうだったが、共同生活、治安維持のために、アルコールは一切禁止となっていた。五月中旬に訪れた女川町の小さな避難所で、炊き出しのあと、焼き鳥を出してしまった。お酒の好きな漁民の多いこの避難所のことを思い、地酒まで用意していったのだが、禁酒のルールを知り、すぐに、トラックの荷台に引っ込めた。焼き鳥のイイ臭いが、避難所になっているお寺の境内に立ち込め、天然水をコップ酒替りにして、焼き鳥を食べていただいた。それでも、人々は、美味しそうに頬をふくらまし、喜んでくれた。女川原発に近く、人里離れたこの小さな避難所は、収容人員が百人足らずで、殆どの家屋が津波に呑み込まれ、高台にあった保福寺という禅寺のお堂が避難場所として使われていた。避難している漁民は、真っ黒に日やけし、一日も早く漁に出たいと嘆いていた。

大浦地区というリアス式の典型的な入江に所在していたこの漁港は、その地形が幸いし、大半の船隻が難を免れ、すぐにでも漁ができる情況だった。リーダーらしき67歳になる漁師は、主要産品である、銀鮭、カキ、ウニなどを、この入江で養殖し、大震災当日まで四千万円近い銀鮭の幼魚を買い込み、出荷を心待ちにしていた。「家は、このまま、愉しいお寺のお堂でいいから、男は一にも二にも、仕事だ」と復興に向けて、意欲をみなぎらせていた。

仮設住宅が、スピーディーに建てられてはいるが、入居率は半分に満たない。仮設住宅に行けば、家族のプライバシイは確保されるが、食材の手当てもままならない現在の被災情況では、食事の確保が難しく、ましてや働く場所のない入居者の人々は、購入するおカネにも事欠いている。仮設住宅建設と共に取り組まなければならないことは、二千億円を越える義援金を、一刻も早く、最少生活資金として、被災者に分配することである。義援金を扱っている日赤は、阪神大震災の時の義援金も、まだ残されていると聴くし、何とひどいのは、事務局運営費に、30%もとっているらしい。こんなにとっているのは、イギリスと日本だけと聴く。

大浦地区で最も感動したことは、二十八歳になる禅寺の住職が、二十二歳で、誰も引き受け手のいなかった保福寺に赴任し、見るからに世話好きそうな奥さんと、二人三脚で、どちらかというと排他的な檀家の人々との連繋と信頼を深めてきたことだった。お堂に住む、百人余の漁民の人々と、この住職は、親子程の年令の違う漁民の人々の長男的存在として、継ぎのあたった粗末な僧衣に、身を包み、境内狭しと動き回っていた。豊かな檀家制度に支えられた都会のお寺に、日頃、本質的に「何か」が欠けていると思っていた「何か」が、いきいきと脈打っていることを垣間見てありがたく、嬉しかった。帰り際、避難所にいるご婦人達が、この住職家族を中心に集まり、再会を誓って、別れを惜しんだ。来年の今頃は、きっと豊漁に湧き、笑顔を取り戻した人々に会うことができるだろう。

2011年5月14日土曜日

南相馬町炊き出し支援

2011年4月30日

南相馬町訪問、孤独なコンビニ

大震災から四十日目の四月二十日、風評被害のため支援物資もままならないといわれる南相馬市を訪れた。列島全体を包んでいる寒波のせいか、春だというのに、山々は雪に覆われ、気温は三度だった。南相馬市の中心街に近づくに連れ、原発二十キロ内の避難区域の実態が目に飛び込んできた。広い道路の両側に並ぶ商店街は、シャッターを閉ざし、時折すれちがう車以外人影はない。異様な雰囲気だ。人生の中で初めてみる光景だった。乗っていった車のナビは、原発から十九・五キロを指している。道路閉鎖の都合で、通行止めになっている地点から福島第一原発までの距離は二十キロを切っていた、翌日からこの辺は、警戒区域に指定され、許可なく立ち入りができなくなった処だ。それでもやむを得ずこの区域に住まざるを得ない住民のために、一軒だけコンビニが孤独そうに営業を続けていた。

原発方向の山並みを眺めると、心なしか、雲が黒ずみ、おどろしい形をしているように思えた。山の端には鉄塔が折れ曲がり、手前の地面には、いつも目にしてた細い送電線が、驚くような太さで蛇が弧を描くように転がっていた。

帰り道、人気の消えた暗闇の中で、昼間見たコンビニだけが、ほのかな灯りをともし、まるで宮澤賢治の銀河鉄道の列車のようだった。この街の人々を乗せて、どこに行くのだろうか。そんな感慨を抱かせた。

わが故郷、愛しの我が家

折れ曲がり、(しな)()れた送電線伝いに、海辺の被災地区、萱浜地区に辿りつい

た。建物は何も見当たらず、海中にあったはずのテトラポットが一面に散乱している。ナビ頼りに、かろうじて分る元の道路を探り乍ら、最も津波被害の激しかった場所を走った。坂道の向こうに、津波が押し寄せた時、道路を通行していたと思われるタンクローリーが、運転席をペシャンコにして横たわっていた。地形の起伏の激しい所なのか、隣り同士の家でも、その立地によって被害状況は、まちまちだ。

人気(ひとけ)のなくなった一軒の大きな家に入らせてもらった。仏壇は、住人が位牌だけはもっていったのだろう。無残にも、もとの位置とは大きくはずれた場所に転がっていた。神棚には、多分、お孫さんの誕生祝の名札であろうか。「あこ」「まこ」と墨書きされた半紙が風に揺れていた。白い壁には、まるで北斎の神奈川沖の浪の絵のような、牙むき出しの津波の痕跡が写し出されていた。

ふと欄間を見上げると、大震災前の平和な時の、この家の空撮写真が額に掲げられていた。良く見ると、街道沿いに、大きな家が軒を並べ、背後には、豊かな耕地が広がっていた。今は、軒を並べていた家も、半壊状態の二軒が残っているだけだ。額の下には、「わが故郷、愛しの我が家」という銘が記されていた。この人達が、再び、愛しの我が家に戻れるのは、いつになるのだろうか。「あこ」ちゃん、「まこ」ちゃんは、元気にしているのだろうか。心配になってしまった。

家族と地域の紐帯

ふるさとと云えば、かねがね私は日本人のふるさとは、東北に残っているという認識が強かった。学生時代、休みの度に、東北の古い街道や民家を尋ねることが好きだった。ある時、免許を取り立ての友人を誘って秋田と青森の県境を走っている時、材木満載の大型トラックと接触事故を起こし、反動で車は反対側の側溝に前輪を落としてしまった。術もないまま、立ちすくんでいる私達二人を、相手側の運転手さんが、その後、車の修理の面倒を見て下さった上に、一週間の修理期間中、ご家族と一緒に、旧盆の忙しい最中、生活を共にさせていただいたことがあった。温泉に入り、夕方はご家族と一緒に団(らん)を愉しみ、

ご先祖様の墓参にもご一緒させていただき、不幸な事故に遭遇したものの、禍が福に転ずる、感動的な体験をした。まるで、日本中の人々が一つの家族であるような待遇であると信じ、錯覚した。近くの人々も、どこか他処の人に思えず、すぐ仲良くなった。今でも、近くに旅すると寄ってみたくなる。私の忘れられない心のふるさとである。きっと「あこ」ちゃん「まこ」ちゃんの家族も、そんな東北の家族だったに違いない。

東北、そして日本人のふるさとを著した名著、柳田国男の遠野物語の一節にこんな文章がある。「我々の祖先がかつて南の海端に住みあまり、あるいは、生活の闘争に()んで、今一段と安泰なる居所を求むべく、地続きなればこそ気軽な決意をもって、流れを伝い、山坂を越えて、次第に北と東の平野に降りて来た最初には、同じ一つの島がかほどまでに冬の長さを異にしていようとは予期しなかったに相違ない。妻子眷族と共にいわば、再び窮屈な以前の群に還っていこうという考えも起こらなかったであろうが、秋の慌しく、春の来ることの遅いのには定めてしばらくの間は、大きな迷惑をしたことと思う。いつかは、必ず来る春を静かに待っている。こういう生活が寒い国の多くの村里では、ほぼ人生の四分の一を占めていたのである。それが男女の気風と趣味習性に大きな影響を与えぬ道理はないのである。」

宮澤賢治の詩にも、太宰治の「津軽」にも、こうした東北の人々が、雪に閉ざされた長い冬を、じっと耐えるように、寄り添い互いをいつくしみ、励ましあって、生きている姿が映し出されている。こうして迎えた春の悦びは、私達の想像を超えている。だからこそ、今回の大震災で見られた、被災者の人々の強い(ちゅう)帯は、比類がなく、美しい。

停滞する日本文化

文明の進歩は、これらの紐帯を弱めることはあっても、強めることはない。文明災とも云われている今回の津波と原発事故、もう一度文化的視点から、文明文化のバランスを見直さなければならない。師曰く、「文化とは、生きるために必要な自然やものや環境や情報あるいは、人を使いこなすための智慧の集積」とおっしゃっている。文明過多・偏重になっているため、文化が停滞し、お粗末になっている。

音楽家やオーケストラの存在が危うくなっていることは、この傾向を如実に物語っている。

今回のような自然の災禍に際して、ものを云うのは、科学技術でも、文明の利器でもなく、人間および人間組織そのものである。そしてその要諦を成すものが、人々の思いやり、助けあい、奉仕の精神、そして忘我利他の心である。人々は、このことを、生まれてはじめて出会う「家族」という、社会の最少組織から学ぶのである。今、社会の隅々で、この「家族」の存在、意味、あり方が薄れ、社会組織全体に悪影響が露出し、危うい。人間そのものに触れる問題でもあると思う。

自民党がキャッチフレーズにしている「絆」という言葉も怪しい。絆とは、私見であるが、一本の綱を二人が共有し支えあい、万一この絆が細く切れそうになった時は登山家が命綱を結び合い、一人の命しか支えられなくなった時と同じように、将来のある若い人にその命綱を託すという行為のようなものであると思う。老醜が跋扈し、居すわり、若い有脳なリーダーに託すことが出来ない政治家や、日本の古い組織、経団連、ロータリー等皆しかりである。絆とは皮肉なキャッチフレーズと云わざるを得ない。キャッチフレーズではなく、戒めに近い。本当の絆は家族の本質を成す要素である。大切だ。

近他朗の会

こうした社会全体の風潮を憂え、主宰するテンダー会議では、何とかこの社会情況を打ち破る打ち出の小槌がないものかと思案している。

私の住む、比較的保守的風土の強い町内でも、長寿会や老人会と云われる多少押し着せ気味の団体がある。わずかばかりだが公費の援助もある。町内でお世話になっている方々の義理もあって、名ばかりの老人会員になっている。本音は、もっと洒落た名前の、前向きな団体であればとも思うのだが、今回の大震災の時のような、いざという時の近くの隣人達は、いろいろな意味で大切なので義務的に入会している。こうしたことにも、新しい地域自治のしくみが必要だ。

数年前から、こうした、いざという時のためや、独居老人になったり、介護を必要とする情況になっても、願わくば、住み慣れた家に住み続け、遠くの親戚より近くの他人同志の助けあいによって、極力、ストレスの高い老人施設に入らないで済むことができないものか、模索をはじめた。

近年予測される東海地震が起こった場合でも、近くの他人同志の助けあいは、極めて重要であることを、今回の大震災は更に印象づけた。凡そ三年前から始まった、町内で隔月開催されているゴルフ愛好会も、それまで、近所に居ながら、殆ど会話らしい会話もせず、互いを知ることもなかった世帯主同志が、親睦を重ね、互いを知り、大きな意味で、家族同様の付き合いが生じ、助けあいの絆が生まれて欲しいと秘かに願い発足し、回を重ねている。願わくば、災害時に備え、自前の備蓄や、病気で食事の準備もままならなくなった隣人のために炊き出し用のキッチンを備えた寄り合い所を、空き地に設けてもいいと思っている。名付けて、近他朗の会。近くの他人同志が、困っている時互いが助けあい朗らかに暮らしてゆけたらという願いをこめて、そんなことを考えている。

大震災被災地の人々の心を支えている宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節、「東ニ病気ノコドモアレバ、行ッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ、行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ、南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコワガラナクテモイイトイイ…ソウイウモノニワタシハナリタイ」この一節に代表されるような、素朴で温かく、やさしい精神風土によって東北の風土は培われてきた。私達、都会の周辺に住む者も、家族、地域、国づくりの源というべき分かち合いと、テンダーな精神を再考しなければならない。近他朗も、宮澤賢治のココロノヨウデアリタイ。

2011年4月17日日曜日

桜花の下で想うこと

平成23年4月17日

大震災さ中の桜

花冷えのせいなのか、それとも、被災者の方々の心情を想い、開花が遅れたのか、今年の桜の開花は遅かった。桜は、どんなことがあろうと、この時季の開花のために、風雪に耐え、じっとこらえてきたようだ。花びらの美しさとは裏腹に、支えている幹や枝は、黒々と、木肌は逞しい。そして、私達をやさしく、しあわせと夢の境地に誘ってくれる。こうした桜の習性は、生命の尊さとはかなさ、一瞬の自然の恵みの大きさを代表しているようだ。

折も折、一年前に入籍を済ませた息子夫婦が、昨年の暮にお世話になった方々をお呼びし、桜花の下で、感謝の宴を催したいと言ってきた。誰も予想だにしなかった、披露宴直前の大震災。お祝いに来られるはずだった、海外の列席者が、刻々、その深刻度を増す放射能汚染情況を目にし、十名近くキャンセルが出てしまった。それでも仕方ない、初志貫徹、こんな時だからこそと、自粛ムードに染まりつつある世間をよそに、四月十日、見事に満開の桜に包まれた、都心の結婚式場で二人の門出を祝うことができた。普通の日常がある処は、普通の行動を維持すべきだ。元気な地域まで自粛自粛では、被災地を救う活力も生まれないというのが実感だった。

考えなければいけないのは、有史以前からこの時季に桜は必ず咲き、地球のマグマ活動による地殻現象としての地震も、幾度となく繰り返されてきたという事実である。

絶大無限な宇宙生命によって誕生した私達人類も、そして私達の住むこの地球も、大きな宇宙、自然の一部である。地震も津波も、桜の開花と同じ自然現象とは言いたくないが、されど地球に住む私達は、こうした自然の営みの尊さと恐さを、便利さと、文明やテンコ盛りの科学技術によって、見境いを亡くし、混同してはいないだろうか。

どんなに人知が発達しても自然を超えることはない。私達の生命の本源である自然への畏敬を、私達はどうも見失っているように思える。

披露宴が終り、ホッとした瞬間、宴のあとの暗闇の中に、ひとひらの雲のように、うっすらと白い桜のかたまりが浮かんでいた。時折、風に吹かれて、散る花びらが、心なしか一筋の涙がこぼれているようにも見えた。私にとっては、愚息なるが故に、結婚に辿りつくまでの苦労に、一区切りをつけた関係者の感涙と、被災者の人々の悲しみの涙ともとれた。

今年の桜は格別だった。これを新しい営みの原動力にすることが、大切なのかも知れない。

原発事故は、傲慢になった人類が引き起こした人災

日本という国を一言で表すとしたら、それは桜でも天皇でもなく、私はあえて「唯一の被爆国」であるといいたい。その被爆国があろうことか、再び被爆国になる道を歩んでいる。東電をはじめ、大企業に操られた新聞メディア紙は、国民世論は、原発絶対阻止なはずなのに、原発維持に固執しているように思う。使われている世論調査を、原発の是非を問う形ではなく、継続を前提に、「何か気になりますか」というような、全くの愚問といわざるを得ない内容だ。

原発の被害情況や修復行程を、今だ、確固たる事実に基づいて、誰からも表明されることもなく、事故から1か月余が経ってしまった。過日、後付けで発表されたレベル7の放射能被災情況は、一体、いつになったら元の情況に戻るのか、日本人ならずとも、世界の人々が不安に陥っている。

報道されている放射能の拡散情況は、実際には、百倍近いという話も、横須賀の人から聞いた。噂は、禁物であるが、本当かも知れない。ご存知の方は、少いかも知れないが、横須賀は、元某首相のおひざ元、防衛族と云われる元首相ファミリーの影響下で、防衛予算の大筋がここで決まり、落されるとも云われている。防衛予算を支える企業群も多い処である。噂には信憑性がある。中でも、米国の意向に添い設立された、核燃料の製造会社もこの地にある。米国GEが主体となり東芝と日立の合弁で作らせた会社である。先に述べた米国カンザスの原発視察の際には、この会社の中堅メンバーと一緒だった。原発事故の際何故か、この会社には、燃料棒製造・管理の専門家がいるはずなのに登場していない。会社の業務システム等も、なぞが多い。是非、対策に一役買って欲しいと思う。

横須賀には防大もある。この度発足した復興構想会議も、その議長は、防大の学長である。防衛と核と原発は、3点セットのようでもある。復興構想会議への期待、そしてその果す役割は大きい。拙速に陥らず、真に近未来の日本の社会・経済システムを創造するつもりで、各委員には臨んでもらいたい。しかし、残念ながら、その人選も構想力に欠けているといわざるを得ない。

私達都市開発に関わる人々の間に「地元の改革は、地元の人に聞くな」というジンクスがある。余り地元における利害の得失が見えすぎ、大胆な発想ができないことに由来している。委員になられた地元三県の知事は、仕方ないにしても、構想力のある大阪・橋下知事や東京の石原知事のどちらかでも入れたい。同じ橋下でも、某メディアの同名の編集委員などは要らない。委員の発言が自由にならない恐れがある。また、会議の冒頭、ノー勘の管さんが、「原発除外」という発言をし、物議をかもし出した。哲学者の梅原猛さんが異論を唱えたのは流石だったと思う。呉越同舟、国民への勇気づけにならない結末だけは避けて欲しい。

復興構想は、自然に学び、自然への畏敬を以って

委員に選ばれた安藤忠雄さんが、その著書の中で、「神社のご神木より高い建物は建てたくない。」と確か、云っていた。高いご神木でも、せいぜい30M位いだろうか。建物の高さにして凡そ10階建てである。安藤さんの最近の作品である表参道ヒルズも、周囲の欅の高さを超えてはいない。建物自体は、個人的に好きではないが、ファサードは、見事なまでに、元の地形や並木、その他の環境をできるだけ壊さずに共存している。今回のような大震災でも、最も避難のし易い動線が確保されている。住居系の建物は、せいぜい3階建、高くても5階までにすべきだ。一方東京湾岸都心に林立する超高層は、科学技術の粋に支えられ、万全のように、は見えるが、エレベーターが止まり、50階に住む住民が、災害時逃げ惑ったら、地上まで果して辿りつけるのだろうか心配になる。加えて液状化も心配である。

今の建築基準法は、技術と論理を駆使し、一見、万全のように想える。しかし今回の大震災は、こうした論理の域をはるかに超えている。自然の脅威は、今回の大震災をして想定外の途方もないことが起ることを私達に伝えようとしている。極論であるが、真の基準は、自然に基づかなければいけない。

荒野の一軒家に基準法は無意味である。鴨長明の住んだ、すきまだらけの苫屋でも良い。晴耕雨読したい健康な老人には最適かも知れない。年金でも、二百万円もあれば、苫屋であれば、十分建つ。その上、省資源、省エネ、省コストである。しかも平屋であれば、軽い素材故に生命も助かる。構想は柔軟でなければならない。

そのプロトタイプが、詩人高村光太郎が晩年に住んでいた、盛岡郊外の高村山荘である。計画停電の際、ローソクの明るさを再認識した人も多いと思う。高村山荘の厠の扉には、光太郎の光の字が一文字切り抜かれている。月夜の日、月の光が光の穴を通して厠を照らし、用を足したらしい。当時無電灯だった。

復興に向けての構想や智慧は無限だ。汎論を重ね「百年河清を待つ」気持ちで復興策の立案に臨んで欲しい。

亡くなった開高健の名言に「明日、世界が滅びようとも、あなたはリンゴの木を植える。」とある。その思いを共有したい。

2011年4月7日木曜日

大地震によって明らかにされた日本再構築への道筋 そのⅡ

平成23年4月8日

震災発生後のお粗末な状況把握

 政府から大震災の発生に対して、どの位い的確な対策が打てるかは、スピーディーな被害状況の把握がまず第一だった。この点、政府の対応は極めて不可解で遅かった。加えて国交省をはじめ海上保安庁、航空自衛隊等の関係機関の出動、連繋も機能しなかった。

 各方面に配備されている空自のヘリコプター、偵察機を瞬時被災地上空に派遣し、被災状況をつぶさに把握することは可能だった。自衛隊の出動も、有事の際には、何とも機能しないような遅さで、知るところでは、派遣決定に、硬直化した官僚組織は、2日間も要した。有事にあって、何もあてにならないことを、国内ならず、国際社会に露呈してしまった。寸断された高速道路、交通網も、このことに拍車をかけた。わが師が、かつて提唱していた、『島国日本に、最も適切な30人規模の小型輸送手段は、水上飛行機だ』ということばを思い出した。大規模な空港施設も要らず、日本各地の簡単な港湾施設整備と交通体系に新しく加えるだけで、こうした非常時に、効果的に働く輸送手段としては、うってつけである。熱海のような観光地再生にも、役立つと師は、良くいっていた。

 国家成立の目的、国の目標を、読み書きを覚えはじめた小学生でも分かるような表現で示された憲法が、日本にはない。各省、関係官庁の連繋がうまくゆかない理由に、「各々の省庁が主管している法律が、バラバラに機能し、法律同志が競合していても、これを束ねる、きちんとした憲法規定が不在である。」からだという人もいる。各省が狭い意味での省役にこだわっているため、省庁間で重複業務が多々あったり、連繋実現が進まないため、ムダが多いといわれる。

司令塔不在・「決断」しないリーダー

 

良くも悪くも、こうした非常事態にあって、司令塔・リーダーの「決断」は、効果的な事態終決に不可決である。残念ながら我が国には、国民の総意を受けて、最終意志決定者となるべき国家元首がいない。天皇が、そうだという人もいるが、天皇は憲法に定められているとおり象徴である。こうした国家中枢のあいまいなしくみも、「判断」はしても、「決断」できないリーダーを生ましめている背景といえなくもない。「判断」は、証拠を並べたて、あたかも入学試験で正解を求める如く結論を出せばいいのだが、ことにあたっての重要な「決断」は、むしろ、証拠や、過去の事例に基づくことなく、重大事の本質を見抜き、広い視野と経験に基づき、効果的な未来を導き出す直感的な能力である。東大出のエリートにはしにくい思考行動である。この点、学歴とは関係なく、修羅場をくぐり抜けてきた、田中角栄的リーダーが切望される所以である。東電の幹部も、菅首相も、あいまいな発言の裏に、消費者、国民不在の視野の狭さが目立ち、明るい未来を迎えるための構想力と決断力が不足している。

 私自身も、大企業であっても、こうした想像力のない、未来に対して責任を持てない。体質の組織が嫌だった。小さいながらも、お客様のために責任ある最善の決断が、どんなにささいなことでもしたくて、三六才で小企業を起した。

 今回の事態は、私のような中小企業経営者にとっても、極めて厳しい環境の中で、苦渋の意志決定を余儀されることを覚悟しなければならない。

遊兵化する自衛隊は、たるんだ行政組織の象徴

(力強い元JCのリーダー達)

 大震災発生後、出動に2日間を要した自衛隊も、これまた、有事の構想力に欠け、判断しかできない組織に成り下がっている。

 四月三日、親しい友人・八人を連れ立って、炊き出しのため被災地・石巻市門脇地区に行ってきた。主宰するテンダー会議のメンバーで、元JCの神奈川トップを努めたK君の人脈と、連絡網が、どんなメディアよりも有効で、役に立ち、徒党嫌いの私でも、有事に役に立つ、若手集団としてのJCを見直した。とりわけ、自らも家を失い、会社が被災しているにも拘らず、献身的に被災地支援のために、不眠不休で、救援物資の仕分けに取り組む、元JC・東北地区トップの通称、「谷部ッチ」の奉仕・行動力に感動した。谷部ッチの眼には、博愛の精神がみなぎり、一人の幸福な人生を構築しつつある、望ましいリーダーの姿が映し出されていた。帰路、疲れているにも拘らず、夜九時過ぎに、石巻市の最も被災の過酷だった市役所周辺を案内してくれた。

絶句する被災地状況

 それまで、テレビで放映される現場とは、比較にならない悲惨な被災現場で、昼間であったら、正視できないような被災状況が想像された。石巻の漁港から五百米位いのところだったが、ここに、三十米程と想われる崖があり、この崖が被災の明暗を分けた。崖の下には幼稚園があり、崖の上には園児達の母親が住む日本製紙の5階建ての社宅が建っていた。震災当日、十メートルを越える大津波が、地形的には、海岸からこの崖に至る猫の額程の人口密集地を、たった数分の間に、三回も襲った。私達が良く体験する例では、嵐の日に、川の淀みの狭い部分程、何回も波が打ち寄せる情況と似ていると思った。一回目の津波で先生達に引率された園児数十人が崖の坂道を昇り切らない中に、二回目の大津波が襲い、一瞬にして悪魔のような波に呑みこまれてしまった。崖上の社宅に住む何人かの父兄は、愛する分身の、尊い命が失われてゆく瞬間を目撃し、絶句した。更に悲惨を極めたことが起った。隣地にあった工場の重油が流出し、津波のため折り重なるように崖下に堆積した車から引火し、辺り一帯を焼きつくしてしまった。凄惨な焼け跡の情況は、暗い闇の中で、ところどころ、焼けただれた車や家を浮き立たせ、恐ろしさを、一層私達の脳裡に刻みこみ、誰ともなく、涙があふれ、すすり泣き、しばし鎮魂の黙祷を捧げ、その場に立ちすくんだ。

復興の原動力、良き東北人気質

予想外だったのは、炊き出しの場所として選んだ駐車場の、ファミリーマートだった。自販機は誰がこんなことをしたんだろうと、全てバールのような物でこじ開けられ、店内のあらゆる商品は、持ち去られていた。他の被災地でも、ATMを含め、同様な情況が目立った。あり得ない、想定外のことであったが、身寄りを失った高齢女性の自殺者が急増し、時々、レイプ等も起こっているという事実も聞かされ、メディアでは伝えきれないできごとを知って驚いた。

 私達が石巻市の門脇地区の先の駐車場で実施した炊き出しは、準備に思って

いたより時間がかかり、午後三時から、夜八時に及んだ。

 これまた、テンダー会議、私達の会社の下請組織であるさんろく会、そして元JCのメンバー等の厚志で、声をかける度に、支援物資が集まった。あり難かったのは、かつて所属していたロータリーの友人から、貴重な農産物の提供をうけたり、たくさんの支援物資を届けることができたことだ。

 最も助かったのは、普段目にすることのない一トンのポリタンクをお借りできたことだ。被災地において水は貴重で、被災後3週間を経たその日、炊き出しに集まった付近の人々は、水不足のため洗濯ができないと嘆いていた。炊き出し終了後、未使用だった五百キロの水を住民の人々に分けることができて嬉しかった。

 用意したメニューは、豚汁、ラーメン、甘酒で、各々、五百人分位いを用意したが、好評裡に五時間の間に提供しつくした。炊き出しを聞きつけ、タクシーで来る人もいて、震災後、過度の自粛ムードで、売上げ、利用客が激減している、首都圏の飲食店にとっては、羨ましい話しだと、苦笑いしてしまった。好評だったのは、ラーメンで、これまた、卒業以来殆ど会うこともなかった、高校時代の友人が経営するラーメン食材卸しのお店から、友人の好意で提供されたものだった。久しぶりに、電話であったが旧交を温め、思わぬ副産物に、胸が熱くなった。

 炊き出しに訪れる殆どの人が、着のみ着のままで、湯気の出たラーメンを、口にした途端、「うわっ、美味しい!」と、喜んでくれた。来て、本当に良かったと思った瞬間が、その後夜八時まで持続し、私達が勇気づけられ、「今度は、あったかいカレーライスを何とかしよう」と皆で帰路語り合ったほどだった。

 たまたまであったが、炊き出しに利用させてもらった駐車場には3時間程自衛隊の十トントラックが、トラックの大きさに似合わない一トン程のタンク車を牽引し、給水作業を行っていた。きれいな迷彩服に身を包んだ二人の自衛隊員は、時折訪れる被災者のために、何かをする訳でもなく、おしゃべりをしていた。迷彩服は行動を迷催するためのように思えた。テレビで見ていた被災地でガレキを片付ける自衛隊員を、石巻では二日間見ることもなかった。避難所でも、ご飯を炊き、カップラーメンに、お湯を注ぐことしかしないらしい。帯広からきた重装備の十トントラックは、多分燃料消費も多量で、無用の長物化していた。もちろん一生懸命、命がけで復興に向けて、任務を遂行している多くの自衛隊員もいるので、2日間の見聞だけで苦言を呈するのは短絡かもしれない。もっともっと力強くスピーディで、ていねいな行動指針か、自衛隊の司令塔に必要な気がした、もったいない自衛隊が遊兵化しているという所以だ。

【自然災害に想定外はない。想定外を想定内にする対策要】

 もともと日本のリーダーには構想力、想像力がない。未知の未来に向けて、正解のあることに正解はできても、適切な方向づけ、決断ができない。

 いわんや想定外のことを考え、対策に手を打つことなどは頭の固い、彼等には、不可能である。皮肉を云えば、政治的リーダーの大事は過去の事例に固執し、全ての国事に関し想定外の難問を、前例にこじつけ、恰もそれが正解のように表現できる、一貫した精神構造をもった、稀な能力をもつ人ともいえる。

日本再構築構想の道筋

 あてがわれた戦後の政治・社会システムが、安保を含め、真に国の安全を考える意味で、制度疲労を起している。憲法不在のまま何か事が起こる度にこの制度疲労した部分を付け焼き刃で、あて布で、ことの本質を隠し、経済成長だけは、目を見張るものがあった。しかし、リーマンショック等に象徴されるように、この成長神話もうたかたの物語にすぎず、経済も、その主体性を見失っている。更に、今回の大震災は、この本質を問うているように思う。国家再構築のため、百年の計を立てる好機が必要である。

 現時、非常に短絡的ではあるが、この数年新しい魅力的な施策が打ち出される度に、財源をどうするかという論議に時間を費やし、施策の目的・本質を損なわれることが目立つ。結局も改革というスローガンは掲げられるが、どれもこれも虚しくその御旗はほころびてゆく。

必要な被災地外の地域の普通の経済活動

 年度末、年始。卒入学をはじめ人事異動、企業においては新年度に向けての明るい豊富がみなぎる時期でもある。2・8と云われ、暇だった2月の売り上げを、この時に補う飲食店も多い。経済活動のもたらす税収によって支えられている官庁、多くの旺盛な国民消費によって支えられている大企業、特に銀行等が、こぞって、歓送迎会や宴会を当分、自粛、乃至禁止したようだ。幣社のテナントさんの肩をもつ訳ではないが、本来、この繁忙期だったはずのこの時期に売上げが落ち込み、家賃が払えないと悲鳴を上げている。このままでは、店をたたむしかない人もいる。落ち込んでいるのは飲食だけではない。計画停電によって、宿泊客ゼロの日もあるという、箱根湯本の温泉街、関係者も含めれば、何万人という働き手が不安の極にいる。

 かつて飲酒運転で、福岡の家族を悲惨な犠牲に追いこんだことが、きっかけで、過度と思われる規制がしかれ、飲食のみならず、経済活動が極めて窮地に追い込まれたことは記憶に新しい。目的は異なるが、被災地復興への原動力は、被災地外の人々の支援と、経済活動にあることを、もっと深くうけとめないといけない。そうでないと、国そのものが危うい。財源論の前に、どんなことがあっても、活力のある未来に向けて、ふつうの経済が維持できる地域では、自粛ではなく、支援に向けて積極的な経済活動を維持することに、施策の軸足を置く必要がある。これがなければ、税収はもっと極端に落ち込み、財源そのものが亡くなることを肝に銘じなければダメだ。元も子もないということになりかねない。

日本再構築を目指し、百年の視点で

 四季の訪れによって映し出される、美しい日本の自然、この中で育まれた助け合いの精神風土、いずれも、愛国心を含め、私達の住む日本の資質を見直す時が来ている。

 今回の震災に会って、つい五十年前には、ふつうにあった停電の時、小さなローソクの炎のもたらす、一灯の大切さと、知足の文化があったことを思い出した。

 技術テンコ盛りの限界知らずの企業活動が今日の繁栄をもたらしてきた一方

で、多くの大学卒業生が就職先を失い、自殺者が急増している。何かのインテ

リジェンス(行間を読む智慧)が欠けている。

 人間が、大昔、絶大無限な宇宙生命から、その存在を授けられているように、自然・生命のバランスやこれを超えた存在はあり得ない。原発に象徴されるように、技術テンコ盛りの人知は、あさはかで、自然を冒涜する行為と認識する必要があり、危険である。

 かの原発で二十年間、放射線を浴びつづけ、逝去された平井さんが云っておられるように「原発で電気を作る位いなら、電気なんて要らない」という真言は、このことを象徴している。

 石油主体のエネルギー供給策を維持し、米国が覇権を維持し続けるために、原発は隠れ蓑になっているという評論家もいる。我が師は、早くから危険な原発をやめ、南米の地下に眠っている石炭資源を共同開発すれば、世界の総人口が七十億になっても、あと百年はもつと強調されていた。ドイツと同じように、原発を全廃し、水力・火力をはじめ、安全な発電システムを見直すべきである。

全国民の智慧で、新たな都市構築に挑む

 想定外のことを想定した、新しい都市創造に向けて衆知を結集する好機だ。

 湘南地区にも、今日若干の津波が押し寄せたが、三陸とは異なる地形によって、水位が若干高まった程度だった。関東大震災の時の記録によると、鎌倉若宮大路で、海抜10M程度の所まで波が打ち寄せたらしい。日本各地どこであっても島国なるが故に津波の心配は否定できない。地勢学的にはもともと火山の上に載っているような国だ。プレート型地震だけでなく、活断層型の地震も懸念される。

 要は大地震は起こり得る。今回の大震災の教訓を深くうけとめ、万一の場合に最小被害に止まるよう種々の対策が必要である。既に被災現地では、仮設住宅が建てられ始め、道路にも新しい電柱が建てられ始めた。全て仮設であれば、当面の対策として仕方ないのであるが、本格的復旧・復興は、復旧型ではなく、極力万全かつ最新の都市計画方法や、土木技術等を結集し、首都移転も含めて被災都市をそっくり造り直す覚悟で臨む必要がある。例えば海辺から五百M位いの地域は港湾施設や海上保安の施設に限定し、住宅地は山の中腹を切り拓き米国の西海岸のような湾岸を見下ろすレベルに宅盤を上げることが必要である。宅地造成のために削りとった土は、商業施設や学校、公共施設・公園等の非住居系の施設・建物を配置するための市街中心地を、埋めたてにより地盤を最低、今の10M位い上げたらいいと思う。海辺で働く人には、避難のためのシェルターか、櫓状の5階建て位いのハイツリーを作り、下部三層位いは強固な支柱のみとし、津波が抜けてゆくように設計したらいいと思う。今年完成するハイツリーにちなみ、ハイツリー計画とでもいったら面白い。市街地は全て電柱を作らず、共同溝方式とし、所々に広場を設け、工事や災害時にシェルター機能を併設させる案はどうだろうか。三面構成の新しい耐震型の都市計画像が浮かび上がってくる。今回の地震で、いざという時堤防は意外に役にたたないことがわかった。

 財政危機の長期化が懸念される中で、巨額の保有米国債を換金し、これを復興資金にあてることや、不要な道路工事を、中断し、公共工事の矛先を、復興のための工事や支援に集中させることを、新たな公共工事として取り組む必要がある。企業の内部留保も新しい寄付税制を発案し、この種の復興事業寄付にあてる事もいいだろう。寄付によってできた耐震施設に寄付企業名をつけることもいいのではないか。計画から実施完了まで三十年から五十年かかる平成の大事業である。今のような視野の狭い政治家達では成し得ない。首相を公選にするなり、国家元首を新しく創設するなりの抜本改革を伴う。今回の大震災からの復興を国民共通の最重要課題として捉え、実現する覚悟が不可欠である。 

 新しい国家創造に向けて、民主を超えた「忘我利他」の精神が全ての原動力となる。

2011年3月31日木曜日

大地震によって明らかにされた日本再構築への道筋

平成23年3月25日

大地震によって明らかにされた日本再構築への道筋

(何故、再構築が必要か)

想定内だった大地震と原発事故

 

三陸から東北を襲った未曽有の大地震、併発した福島原発の事故、被災された方々に衷心からお見舞いを申しあげると同時に、多くの犠牲者の方々に心からの哀悼の意を捧げます。

大地震発生直後から「千年に一度とか、想定外の大地震」と関係者から異口同音に発せられるコメント、本当に想定外だったのだろうか。19世紀の末、未だ日本の人口が1億人に満たない頃、三陸沖で起きた大地震によって2万2千人の犠牲者を出したという記録がある。また1933年には死者3千人を超える同じような三陸沖地震が襲っている。地震の予知当局は何回も、凡そ60年おきに繰り返されるこの大災害に警鐘を鳴らしていたが、残念乍ら本気の対策は講じられなかった。専門家によると、今回は地球内部のマントルの激動により太平洋プレートが北米プレートを押し上げ、折り悪しくこれに2回の地殻変動が加わった。リアス式という地形条件が津波被害を甚大にしたと云える。

さらに残念なのは津波によって引き起こされた福島第一原発の事故である。いかに論理的に想定外とはいえ、専門家によると、日本の原発は欧米のウラン・プルトニウムの供給政策により、エネルギー資源の枯渇している日本が標的になり、唯一の被爆国という体験を忘れてしまったのか、お粗末で古い設計基準に基づく原発が反対者の声を封じ込めるように次々と建設されたと云われる。

欧米の科学者からは、日本の原発設計規準は甘くそのシステムが危ういと、何回も指摘されてきたらしい。


日米で雲泥の差のある原発システム

  

私自身も、ロータリーの研修で訪れたカンザス州で、市営の原発内部を、テロ対策のため機関銃をもった重装備のガードマンに囲まれながら視察したことがある。その印象は周囲数十キロは殆ど無人で、冷却のための相模湖大の人工湖が造られ、この人工湖の周囲には鉄条網が張りめぐらされていた。冷却のため排出された湖の水温は高く、中に住む魚は通常サイズの3倍近くもあり、放射能のもたらす脅威を肌に感じ、身震いした。特に原子炉を囲む建屋は福島原発の2倍近くもあり、原発の専門家が指摘するように、率直な印象は東電の造った原発システムはケチでお粗末なのかも知れない。少なくともテロ対策も含め安全に対する日米の認識には雲泥の差があることが分った。     


いいかげんな原発管理

 

この辺の事実情報としては、20年間原発内部で働き、1997年被曝によるガンのため逝去された平井憲夫さんがそのブログの中で、農閑期のお百姓さんや労務者という専門家とは程遠い素人によって維持されている危険なメンテナンスの現状、そしていいかげんな耐震設計構造、垂れ流される放射能の恐ろしさなどに言及している。これを読むと、東電、原子力安全委員会、保安院、その他原発を取りまく関係組織がどうしようもなく悪しき官僚体質に汚染されつくしていると思わざるを得ない。官僚が悪いといってるのではないが。

国民不安をかき立てる関係者の虚妄発言

 

官房長官、東電、保安院、あげくの果てに原子力安全委員会、今日の原発事故を巡って変わる変わるテレビ画面に登場する人々、睡眠不足の性ではないと思うが、まばたきをせずに、にわか勉強のようなコメントを誠実に繰り返す官房長官、眼力の全くない、こんな人が巨大独占企業を率いてきたのかと思うような東電の幹部、そして次々と変わる広報の担当者、薄笑いを浮かべ、かぶりものをつけながら、こんなことを云ってはいけないが、失礼ながら風貌同様、何かを隠していそうな東大卒、ハーバード出の保安院の担当者等、いずれの言葉からも私達の不安をかきたてても、共通した事実情報はかけらもない。すごく可笑しいのはいずれのコメンテーターも原発現地を見ずに何かを告げようとしていることである。若しかしたら先の亡くなられた平井さんのいってらっしゃるように、命を安く見積もられた素人に近い人々が危険にさらされながら、まちまちの情報を提供しているからと思いたくなるようなコメントである。


私達は日本語という国語の中に住んでいる

 

「私達は日本という国ではなく、日本語という国語の中に住んでいる」とは、尊敬する評論家の山本夏彦の名言である。よく外国人から、日本語は覚えにくく分からないと云われる。1つの概念について多様な表現方法がある。あいまいともとれる。発する人によって同じ言葉でも、全く反対の意味をもつ場合もある。「ハイ」といいながら「イイエ」といわれているような場合もある。複雑な交渉事においてその場の空気がものを言い、言葉にならないまま、ものごとが決まることもある。山本七平さんが「空気の研究」という著書の中で、太平洋戦争はまさにこの空気によって開戦決定がなされたと指摘している。60数年を経過した今も日本のこのあいまいな主体は変っていない。テレビに登場する各々のコメンテーターの裏には、何か、共通した得体の知れない淀んだ空気が存在しているように思える。

厚生大臣就任当時は、民衆の味方的存在であった菅首相の言葉も、司令塔としての自覚がない。「私は万全を尽くしますから、国民にも節電等の協力を願いたい」というだけで、日増しにその眼力が衰え、背中に気迫がなく、これでは労組の領袖にもなり得ない体たらくぶりである。海外メディアから「菅起きろ!枝野を寝かせろ!」と云われるのも無理はない。何故こんな人を首相に選んでしまったのか、全国にそんなリーダーが蔓延している。自問自答も虚しいが、この未曽有の緊急事態に何らの決断もなく日本語のあいまいな部分を言い訳だけに悪用してるようにしか思えない。誰かが云っていた、日本の子供達に今一番必要な教育は「きちんとした国語を学ばせる」ことだといっている。つい百年前まで日本の良き精神文化を支えてきた美しい日本語が消えようとしている。このことが官僚・大企業の危いリーダーを次々と生じさせていることと関係している。

同時期に、大ニュースにならなかったみずほ銀行のシステム不全も私の知るところでは同様な因果関係によって生じていると思える。みずほ銀行はもともと日本興業銀行、第一勧業銀行という国策銀行と富士銀行という3つのほぼ同規模の銀行が合併し官僚体質のよりエリート集団で、司令塔がいなく、業績が最も低迷している。子会社のゴルフ場に私も所属しているが、このメンテナンスも、同様である。お上にばかり目が向いている。リーダー不在は、末端にまで悪影響を及ぼす。


沈黙する大企業のサラリーマン社長

 

この非常事態にあたって史上空前の内部留保570兆円を抱えた大企業トップは殆どメディアに登場しないばかりかリーダーとしての発言もない。液状化で正に砂上の楼閣と化しつつある浦安地区、ディズニーランドをはじめ某財閥企業はこの周囲の海岸埋め立てによって莫大な利益を挙げた。この莫大な内部留保は殆ど政商的連繋によってもたらされている。それでも当時の創業社長は、モラルがあった。芸術家を支援し、大学まで創った。政商的連繋とは、オリックスと郵政カンポの宿の、評価額の十分の一以下と云われる不正入札のようなものである。かつての三公社五現業と云われる企業が、民営化された時、それまで国民の税金によって給われていた莫大な国有土地・資産が、先の例と同じような低廉簿価で民間の会社に移された。JR・JT・NTT等が筆頭である。更に官僚体質のこれらの企業は経営を維持するために、この国有資産であった、かつての土地の売却利益で損失を補填してきた。不動産ご三家の、頭文字にMの付く企業は、私達のような中小企業では得られない、この手の不動産情報を優先的及至政治的なコネで入手し、確定的利益をものにしてきたと想われる。今もこうした連繋は続いている。政商的と云う所似である。

これらの関係者は何かを考え、表明すべきと考える。埋め立てによって海底から住宅地に生まれ変わった浦安地区は、またたく間に地価高騰地区として全国に名の知れた高級住宅地に変貌した。自然の宝庫である海辺を必要以上の人間の営みのために浚渫技術を駆使して造った結果が、今日の状況を迎えてしまったことが原因である。考え直さなければならない、技術テンコ盛り、効率一辺倒の人為は絶対に自然の偉大さに勝てないことを思い知るべき事態である。資源のないのに、ガラスとアルミで作られた巨大な空港施設、比較的背の低い日本人には似つかわしくない、北欧ヘルシンキの木で造られ、何十年もその伝統的空間を維持している、人間サイズの空港にこそ、自然への畏敬に満ちた建築様式のプロトタイプがあると見るべきである。

もともと東電は下請をアゴで使い、お上や大口客には種々の接待攻勢で有名である。あるジャーナリストが六ヶ所村を視察した時、ご本人は真面目な気持ちで1泊2日の視察に向かったのだが、廃棄場視察は二の次で、近くの東電関係施設と覚しき温泉宿で、上げ膳据え膳の饗応づくめだったという。また私自身の仕事と関係するのだが、日本の美しき風景を台無しにしている電柱においても諸インフラを包括した共同溝設置が叫ばれ、造成の度に陳情するのだが何故か電柱配電にこだわっている。そんなこともなかろうが、東電という巨大独占組織はその傘下に関電工、同窓電機、天下り官僚を含め、たくさんの傘下組織と従業員を維持するため古き電柱による配電組織が不可欠だと云う人もいる。


復興対策は国民総出で、新しい国家創造をめざす覚悟が必要

 

未だ、今回の大地震で行方不明になられた人々の数は明らかではない。多分、この大地震によって引き起こされた10数メートルに及ぶ大津波によって天に召されてしまっているように思える。地震発生から大津波の襲来までのたった30分足らずの間に、多くの人々が驚愕し、またたく間に恐ろしい自然の魔手に捉えられ、命を落された。想像だにしたくない。しかし今回の被災者の、聞かれたであろう大津波の豪音は、生きのびた私達に多くの文明生活への警鐘をとどろかせた。全国民が我が事としてこの大惨渦を共通の負託としてうけとめ、対応している。この対応ぶりの見事さは、欧米のマスメディアからも賞賛されている。誇りに思うことである。

これまでのあてがわれた戦後の政治システム、大企業偏重の経済社会システムから、産業界の大半を占める中小零細企業の中にも、名もなく自主自営し善行を重ねているリーダーがいることにもスポットをあて、今回の大災害を新しい形の国づくりの原動力にしなければならない。そうでなければ先の豪音は悲しく虚しい死者からのメッセージに終わってしまうだろう。日本の精神文化を支えた観音の思想は、この真実の声、音に耳を傾け、この音にこそ私達の生きる道すじがあることをしるべきではないか。


被災地外の公務員・首長が取り組むべきこと


 先の名古屋市議会解散、市長選挙で示された、減税・議員定数削減への民意は、多くの自治体の今後の方向づけを示した。私の住む市でも、市長のなり手がいず、無風選挙によって再選された市長が、殆ど物を云わず、高額報酬が支払われている議員によって、議論のない市議会が運営されている。この下で、平均給与八百万円近い職員が千人近くも働いている。被災に遭われた被災地の公務員のことを想うと、若手の公務員の中から一割位いを募って徒手空拳に陥らずサポートに派遣するような案は、でないものだろうかと考える。地域が地域の垣根を超えて、新たな国づくりのための、地域の公務を見直す好機にしなければならない。国レベルの改革のための協議が偉い人々によって何便されても、国はよくならない。実行できるかどうかは地域に住む市民1人1人の意思、自覚とその手にかかっているからである。良く云われる「日本は平和ボケしている」という言葉が今回程、胸に響いたことはない。学徒出陣ではないが平和的、教育的な意味あいにおいて、大学生や就職先のない卒業生を、一定の期間、身よりのない被災者や介護を必要としている被災地の高齢者家庭に派遣し、生命の尊さや助けあうことの意味を体験してもらい、就職先への新しい評価制度を作ることも必要かも知れない。市民の一人として、4月3日から主宰するテンダー会議の有志達と一緒に、ささやかではあるが、できるかぎりの物資をトラックに積みこみ、現地への炊き出しに出かける。願わくば、そこで被災者の方々と連帯を深め、復興への勇気を共有したい。再構築への、大切な手がかり“何か”が確信できるはずである。


大企業に牛耳られる悪のメディアから、視聴者本意のメディアに


連日、特別番組として、どのチャンネルを回しても、共通のニュースソースを使い乍ら、何回も放映される被災現場、見ているだけで、他の仕事が手につかなくなる。急に出てきたA.Cという大企業に操られた広告協会の、くどい道徳映像、やらせとしか言いようがない。本来こうした被災に際しての報道は、現地の事実情報を、キャスターを派遣し生のニュースとしてまず、国民に真実を伝えることが第1使命である。そして国民自身が判断や決断をし易くすることが大切だ。平常時と変らない、大学教授や評論家・タレントがこの事実を観て感想を述べることなどは、余りやるべきではない。特に深夜の安息時間のみだりな報道は、国民の不安をかき立てる。電力についてもテレビも例外ではなく、時間帯を規制してもいい。むしろ特別番組は、原発に対する各国の政策のちがいや、世論、過去の大災害の時に知恵のある対応をした、歴史的事実。更に、復興のために必要な現地の情報を踏まえた、構想や具体策の提案等にスポットライトをあてるべきである。

戦後、CIAからコードネーム、ポダムという名前を与えられ、戦犯釈放と引きかえに、10億円の元手を与えられ、読売新聞を設立した正力松太郎は、その後の大手主導、即米国主導のメディア行政を牛耳ったばかりでなく、原発事業にまで手腕を発揮したといわれる。詳細は植草一秀氏の「日本の独立」に書かれている。

そのⅡへつづく