南相馬町訪問、孤独なコンビニ
大震災から四十日目の四月二十日、風評被害のため支援物資もままならないといわれる南相馬市を訪れた。列島全体を包んでいる寒波のせいか、春だというのに、山々は雪に覆われ、気温は三度だった。南相馬市の中心街に近づくに連れ、原発二十キロ内の避難区域の実態が目に飛び込んできた。広い道路の両側に並ぶ商店街は、シャッターを閉ざし、時折すれちがう車以外人影はない。異様な雰囲気だ。人生の中で初めてみる光景だった。乗っていった車のナビは、原発から十九・五キロを指している。道路閉鎖の都合で、通行止めになっている地点から福島第一原発までの距離は二十キロを切っていた、翌日からこの辺は、警戒区域に指定され、許可なく立ち入りができなくなった処だ。それでもやむを得ずこの区域に住まざるを得ない住民のために、一軒だけコンビニが孤独そうに営業を続けていた。
原発方向の山並みを眺めると、心なしか、雲が黒ずみ、おどろしい形をしているように思えた。山の端には鉄塔が折れ曲がり、手前の地面には、いつも目にしてた細い送電線が、驚くような太さで蛇が弧を描くように転がっていた。
帰り道、人気の消えた暗闇の中で、昼間見たコンビニだけが、ほのかな灯りをともし、まるで宮澤賢治の銀河鉄道の列車のようだった。この街の人々を乗せて、どこに行くのだろうか。そんな感慨を抱かせた。
わが故郷、愛しの我が家
折れ曲がり、撓垂れた送電線伝いに、海辺の被災地区、萱浜地区に辿りつい
た。建物は何も見当たらず、海中にあったはずのテトラポットが一面に散乱している。ナビ頼りに、かろうじて分る元の道路を探り乍ら、最も津波被害の激しかった場所を走った。坂道の向こうに、津波が押し寄せた時、道路を通行していたと思われるタンクローリーが、運転席をペシャンコにして横たわっていた。地形の起伏の激しい所なのか、隣り同士の家でも、その立地によって被害状況は、まちまちだ。
人気のなくなった一軒の大きな家に入らせてもらった。仏壇は、住人が位牌だけはもっていったのだろう。無残にも、もとの位置とは大きくはずれた場所に転がっていた。神棚には、多分、お孫さんの誕生祝の名札であろうか。「あこ」「まこ」と墨書きされた半紙が風に揺れていた。白い壁には、まるで北斎の神奈川沖の浪の絵のような、牙むき出しの津波の痕跡が写し出されていた。
ふと欄間を見上げると、大震災前の平和な時の、この家の空撮写真が額に掲げられていた。良く見ると、街道沿いに、大きな家が軒を並べ、背後には、豊かな耕地が広がっていた。今は、軒を並べていた家も、半壊状態の二軒が残っているだけだ。額の下には、「わが故郷、愛しの我が家」という銘が記されていた。この人達が、再び、愛しの我が家に戻れるのは、いつになるのだろうか。「あこ」ちゃん、「まこ」ちゃんは、元気にしているのだろうか。心配になってしまった。
家族と地域の紐帯
ふるさとと云えば、かねがね私は日本人のふるさとは、東北に残っているという認識が強かった。学生時代、休みの度に、東北の古い街道や民家を尋ねることが好きだった。ある時、免許を取り立ての友人を誘って秋田と青森の県境を走っている時、材木満載の大型トラックと接触事故を起こし、反動で車は反対側の側溝に前輪を落としてしまった。術もないまま、立ちすくんでいる私達二人を、相手側の運転手さんが、その後、車の修理の面倒を見て下さった上に、一週間の修理期間中、ご家族と一緒に、旧盆の忙しい最中、生活を共にさせていただいたことがあった。温泉に入り、夕方はご家族と一緒に団欒を愉しみ、
ご先祖様の墓参にもご一緒させていただき、不幸な事故に遭遇したものの、禍が福に転ずる、感動的な体験をした。まるで、日本中の人々が一つの家族であるような待遇であると信じ、錯覚した。近くの人々も、どこか他処の人に思えず、すぐ仲良くなった。今でも、近くに旅すると寄ってみたくなる。私の忘れられない心のふるさとである。きっと「あこ」ちゃん「まこ」ちゃんの家族も、そんな東北の家族だったに違いない。
東北、そして日本人のふるさとを著した名著、柳田国男の遠野物語の一節にこんな文章がある。「我々の祖先がかつて南の海端に住みあまり、あるいは、生活の闘争に倦んで、今一段と安泰なる居所を求むべく、地続きなればこそ気軽な決意をもって、流れを伝い、山坂を越えて、次第に北と東の平野に降りて来た最初には、同じ一つの島がかほどまでに冬の長さを異にしていようとは予期しなかったに相違ない。妻子眷族と共にいわば、再び窮屈な以前の群に還っていこうという考えも起こらなかったであろうが、秋の慌しく、春の来ることの遅いのには定めてしばらくの間は、大きな迷惑をしたことと思う。いつかは、必ず来る春を静かに待っている。こういう生活が寒い国の多くの村里では、ほぼ人生の四分の一を占めていたのである。それが男女の気風と趣味習性に大きな影響を与えぬ道理はないのである。」
宮澤賢治の詩にも、太宰治の「津軽」にも、こうした東北の人々が、雪に閉ざされた長い冬を、じっと耐えるように、寄り添い互いをいつくしみ、励ましあって、生きている姿が映し出されている。こうして迎えた春の悦びは、私達の想像を超えている。だからこそ、今回の大震災で見られた、被災者の人々の強い紐帯は、比類がなく、美しい。
停滞する日本文化
文明の進歩は、これらの紐帯を弱めることはあっても、強めることはない。文明災とも云われている今回の津波と原発事故、もう一度文化的視点から、文明と文化のバランスを見直さなければならない。師曰く、「文化とは、生きるために必要な自然やものや環境や情報あるいは、人を使いこなすための智慧の集積」とおっしゃっている。文明過多・偏重になっているため、文化が停滞し、お粗末になっている。
音楽家やオーケストラの存在が危うくなっていることは、この傾向を如実に物語っている。
今回のような自然の災禍に際して、ものを云うのは、科学技術でも、文明の利器でもなく、人間および人間組織そのものである。そしてその要諦を成すものが、人々の思いやり、助けあい、奉仕の精神、そして忘我利他の心である。人々は、このことを、生まれてはじめて出会う「家族」という、社会の最少組織から学ぶのである。今、社会の隅々で、この「家族」の存在、意味、あり方が薄れ、社会組織全体に悪影響が露出し、危うい。人間そのものに触れる問題でもあると思う。
自民党がキャッチフレーズにしている「絆」という言葉も怪しい。絆とは、私見であるが、一本の綱を二人が共有し支えあい、万一この絆が細く切れそうになった時は登山家が命綱を結び合い、一人の命しか支えられなくなった時と同じように、将来のある若い人にその命綱を託すという行為のようなものであると思う。老醜が跋扈し、居すわり、若い有脳なリーダーに託すことが出来ない政治家や、日本の古い組織、経団連、ロータリー等皆しかりである。絆とは皮肉なキャッチフレーズと云わざるを得ない。キャッチフレーズではなく、戒めに近い。本当の絆は家族の本質を成す要素である。大切だ。
近他朗の会
こうした社会全体の風潮を憂え、主宰するテンダー会議では、何とかこの社会情況を打ち破る打ち出の小槌がないものかと思案している。
私の住む、比較的保守的風土の強い町内でも、長寿会や老人会と云われる多少押し着せ気味の団体がある。わずかばかりだが公費の援助もある。町内でお世話になっている方々の義理もあって、名ばかりの老人会員になっている。本音は、もっと洒落た名前の、前向きな団体であればとも思うのだが、今回の大震災の時のような、いざという時の近くの隣人達は、いろいろな意味で大切なので義務的に入会している。こうしたことにも、新しい地域自治のしくみが必要だ。
数年前から、こうした、いざという時のためや、独居老人になったり、介護を必要とする情況になっても、願わくば、住み慣れた家に住み続け、遠くの親戚より近くの他人同志の助けあいによって、極力、ストレスの高い老人施設に入らないで済むことができないものか、模索をはじめた。
近年予測される東海地震が起こった場合でも、近くの他人同志の助けあいは、極めて重要であることを、今回の大震災は更に印象づけた。凡そ三年前から始まった、町内で隔月開催されているゴルフ愛好会も、それまで、近所に居ながら、殆ど会話らしい会話もせず、互いを知ることもなかった世帯主同志が、親睦を重ね、互いを知り、大きな意味で、家族同様の付き合いが生じ、助けあいの絆が生まれて欲しいと秘かに願い発足し、回を重ねている。願わくば、災害時に備え、自前の備蓄や、病気で食事の準備もままならなくなった隣人のために炊き出し用のキッチンを備えた寄り合い所を、空き地に設けてもいいと思っている。名付けて、近他朗の会。近くの他人同志が、困っている時互いが助けあい朗らかに暮らしてゆけたらという願いをこめて、そんなことを考えている。
大震災被災地の人々の心を支えている宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節、「東ニ病気ノコドモアレバ、行ッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ、行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ、南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコワガラナクテモイイトイイ…ソウイウモノニワタシハナリタイ」この一節に代表されるような、素朴で温かく、やさしい精神風土によって東北の風土は培われてきた。私達、都会の周辺に住む者も、家族、地域、国づくりの源というべき分かち合いと、テンダーな精神を再考しなければならない。近他朗も、宮澤賢治のココロノヨウデアリタイ。
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